さっぽろ文庫 16
冬のスポーツ
札幌市教育委員会編

 冬のスポーツと私
    ――序にかえて――
札幌市長 板 垣 武 四

 冬をどう生きるか、ということは私たち北国に住む者にとって、最も重要な課題です。
 開拓当時の冬の暮らしを考えてみますと、どの家も根雪とともに冬ごもりに入り、ただ一日も早い春を待つ状態だったのではないでしょうか。
 こうした冬眠にも似た暮らしぶりの中から、ようやく冬の持ち味をそれなりに活用しようと思いはじめたのは、札幌では大正期に入ってからのようです。大正期というと、札幌も街としての体裁を整えて、市民生活にも潤いの出はじめた時代です。一中(現南高校)の雪戦会が冬の風物詩として市民に親しまれ、中島公園の池では氷上カーニバルが開かれるようになります。さらに昭和期に入ると、宮様大会をはじめ各種のウインタースポーツの競技会が生まれ、市民の眼は冬の戸外に向けられます。小中学生のスキー遠足などもこんな頃から学校行事に組みこまれていったと思います。
 私が山鼻で過ごした少年時代は、ちょうどこのころでした。当時の山鼻はまだ畑地や空地が多く、そこを斜めに突っ切って、双子山や源ちゃんスロープまで、自宅からスキーをはいたまま、よく出掛けたものでした。ゴム長靴の上部をひもで縛って雪が中に入らぬようにし、革の締め具のついた単板のスキーをはき、竹のストックを持って――。ストックの輪に新雪を載せ、谷水にひたしてから、それを飲んだことなども忘れられません。
 スケートは下駄スケートか竹スケートでした。下駄スケートとは古い下駄やあしだの歯を外したものの底に金具をつけたもの。竹スケートは割り竹の先を曲げただけの簡単なものでした。雪道を行く馬そりのうしろにこっそりとつかまって滑り、それを見つけられて大あわてで逃げだした、なんてこともよくやりました。

 昭和四十七年、札幌で開催された冬季オリンピックは、選手のすばらしい技と記録に、また各国からのお客様と市民のみなさんの温かい交流に、大きな感動の輪を世界に拡げましたが、その期間中、あわただしいスケジュールの中で、時折、少年時代の記憶が重なりあって、一層感動を深めてくれたことを今思い出します。
 例えば開会式に登場した小学生のスケーターたちです。手にした風船が一斉に空に放たれた時、ふっと思い出したのは、子供の日に見た氷上カーニバルでした。銀盤に浮かぶ鮮やかな衣装や仮装行列、露店のカーバイト灯のにおいさえ漂ってくるような錯覚さえありました。そして、今開会式に参加している子供たちも、いつか私と同じような郷愁と感動をもって、今日を思い出してほしいと願ったものでした。
 そんな願いもこめて、昨年二月、中島公園のあの池のすぐ近くに「冬のスポーツ博物館」をつくりました。札幌オリンピックの資料のすべてを集めたばかりでなく、冬のスポーツの歩みを、スキー・スケートの発祥のころから、詳しく紹介しています。
 本書はいわば、この博物館と一対をなすものともいえるでしょう。
 冬をどう生きるか。これは未来に続く課題です。私は市民みなさんの知恵がその課題を暮らしの中で解いていくのだと思います。北の文化は雪の中で一歩一歩踏み固められ、強固になって行くのだと思います。

昭和五十六年二月

さっぽろ文庫16 目   次

 冬のスポーツと私
板垣武四

序章 冬・生活とスポーツ
宮崎兼光
はじめに 札幌の開拓 大正・昭和のはじめ
生活としてのスキー・スケート スキーの競技化と山スキー
ヒュッテ 戦後の札幌の冬 冬の祭典

第1章 スキー

 1 札幌・スキーの歩み
大野精七
札幌のスキーの父はスイス人ハンス・コラー先生
スキー場とシャンツェ 荒井山と大倉山 円山競技場周辺
昭和十五年の札幌オリンピックを返上
戦後、大きく発展した民間スキー場 三十一年、荒井山にリフト
歩くスキーで健康づくり

 2 ノルディックスキー
小原正巳
距離競走 距離競走のルール
ジャンプ競技 ジャンプ競技のルール
複合競技 複合競技のルール

 3 アルペンスキー
中川信吾
アルペン競技の草分け時代
札幌が生んだ名選手たち 競技の見どころ勝負どころ
スキー用具の移り変わり アルペン競技のルール

第2章 スケート

 1 札幌・スケートの歩み
久保信
スケート用具について 札幌のスケート場
札幌スケート協会の創立 札幌で開催された競技会

 2 スピードスケート
河村泰男
スピードスケートの歴史と発達 札幌における競技会の今昔
札幌出身の名選手たち 競技の解説とみどころ

 3 フィギュア
有坂隆祐
フィギュア・スケーティングの歴史 競技ルールの改正
技術の変遷 採点とみどころ 札幌のフィギュア・スケート史

 4 アイスホッケー
朝日孝
札幌クラブ チビッ子チームの誕生 実業団の活躍
リンクと競技ルール

第3章 行事

 1 宮様スキー大会
赤坂富弘
大会誕生と札幌スキー連盟
大倉シャンツェと記録 苦難の時代から大会復興へ
大野精七と北海道スキー界 活躍した名選手

 2 世界スピード選手権
内藤晋
札幌開催が決まるまで 大会の歴史 日本と世界選手権
日本にあこがれていたアンデルセン 氷つくりの苦労
大会開幕 レース経過 タイトルは再びソ連へ
戦い終わって スケート界に及ぼしたもの

 3 札幌オリンピック冬季大会
河村隆盛
札幌オリンピック開催の意義 オリンピック招致の不成功
開催決定 大会の準備 全日本冬季競技総合大会
札幌国際冬季スポーツ大会 聖火リレー 開会式 競技
閉会式 市民の協力 大会の評価

第4章 冬の遊び

 1 雪戦会
菅忠淳
その歴史 概要とルール 紙上に再現 エピソードを拾う

 2 氷上カーニバル
久保信
発足のころ 戦後のあゆみ

 3 スキー登山
宮田泰
スキー登山のはじめ スキー登山発祥の手稲山 春香山と奥手稲
札幌岳と空沼岳 無意根山
ヘルヴェチヤヒュッテから

第5章 こぼれ話

 1 話題を追う
小原正巳
死の耐久レース “スキーの王様”関口勇
カラスに悩まされた氷づくり 鞍馬シャンツェとスノーホッケー
鉄人「栗谷川平五郎」 全校応援で盛り上がった中学スキー
〇・二五度差で勝った札幌オリンピック

 2 名選手群像
真鍋晃雄
〔スキー〕ジャンプ 距離 複合
〔スケート〕スピード フィギュア アイスホッケー

 3 わが体験
私のスキー人生
落合力松
スケートとともに歩んだ半生
内藤晋

 4 歩くスキーとともに
小玉昌俊

 5 スキーパトロールの目から見て
芹田馨

 冬のスポーツ施設マップ
 冬のスポーツ施設一覧表
 札幌市冬のスポーツ博物館
 冬のスポーツ略年表

 あとがき

装画<スキー> 栗谷川健一
本文イラスト 馬場 護
カバーデザイン 浪内 一雄

序章 冬・生活とスポーツ
宮崎 兼光

  はじめに

 北国の生活を、札幌創建の時の史料に基づいて想起してみた。スキー・スケートが生活用具から競技化される過程は長くはかからない。人は、いつも活気に満ちていれば競う心がある。明治末期から昭和十五年ごろまではこの傾向の大きい時であった。戦後は昭和三十年ごろまでを競技の復興期とし、それ以後をスポーツの国際化と観光レクリエーションの期としてとりあげた。
 スポーツは、相手が人でなくとも、自然でも、動物でもよい。自分の力を試してみて自信を深め、そのことで己を発見し自分を鍛えあげていく作業である。雪国で寒冷に負けたら死を意味するから、そのためにも事前にち密な調査や計画をたてての研究が必要なことは山歩きだけのことではない。私たちは北海道の歴史を漠然と眺めていてはいけない。雪国は荒れ狂う天候と美しい晴天が交錯して訪れる。前者で防備と、後者で攻撃が、自然と身について性格が形成されてきているようだ。そしてこのリズムに乗って生活する必要がある。寒冷に耐える方法、雪を利用して生活に潤いをもたらすこと、時代の流れに遅れぬことを永久に続けていかねばならぬと思う。

  札幌の開拓

 箱館(現在の函館)は、本州との連絡上地理的に有利であったので早くから開けていた。しかし、全道を統括する首都は石狩国でなければならないという有力者の意見と、北地巡視の経験も買われて、島義勇が命をうけて、明治二年(一八六九)十一月十二日の冬の最中に札幌本府創建の事業に着手した。島は将来の大都を夢み、雄大な構想を描いて努力を続けた。地味が肥えて交通の便が良ければ、人が自然に集まり住みついて村となり町となるのだが、札幌はこうした過程を踏んではいない。すぐれた考えと鋭い目でとらえた人為的な造成による創立であった。未開地は必要物資の需給や特に食糧入手の苦労、経費の予算が驚くほど超過し、島は更迭された。
 しかし、島の意図のすばらしさが見直され、明治三年(一八七〇)に岩村通俊があとを継承して指揮監督を行い、形態は整えられた。移民を招致して急激な街づくりが進んだ。明治六年と七年に北の護りと開拓を目的として屯田兵制が創設され、明治十九年(一八八六)北海道庁が設置されて岩村通俊が初代長官となった。
 いま、藻岩山や円山の山麓谷間のごとくに北大構内、植物園、中島公園、大通九丁目などの大木にクマザサの茂る荒野を配して昔日をしのべば、人は集団生活を必要とする生物であるにもかかわらず、開拓の時はその人もいない。密林の中で樹を倒し根を掘りおこし、種をまいて野菜を作り、開拓の土地面積を広げる。屯田兵の開墾は生やさしいものでない。掘っ立て小屋で過ごす冬の厳しさは想像に絶するだろう。
 防寒の備えも無く、空腹のクマが人家を襲い、北海道に送られた囚徒が明治十五、十七、十八年には集団脱監して凶悪な犯罪を行うなどの、恐怖戦りつをこらえ、荒れる冬空に鳴る風、小屋に吹きつける雪つぶてを、明かりも無い部屋で細々と暖をとりじーっと耐え忍ぶ生活を毎日繰り返したことを考えると、昔の人はどんなにか忍耐心の強い克己の人であったかわからない。富を夢みる旗上げ者で、寒冷な気象に耐えられなくて、文化の花咲く西方の故郷へ逃げ帰った者も多いと記してある。

  大正・昭和のはじめ

 十月になって、明け方、床の中で足を縮めたりするような冷え込みを覚えるとき、外には草や屋根に霜がおりている。十日前後から初氷が上川盆地、十勝平野、倶知安といった内陸地方から始まる。木枯らしが訪れると次に雪が来る。白鳥の飛来が報ぜられ、白い細かい綿のような雪虫が飛び、庭さきには落葉をたく煙、畑には霜よけの煙がなびく。越年用のダイコンが軒先や垣根に干され、ストーブが取り付けられ、落雪でガラスが割れることの無いように横板を打ちつけて気ぜわしい冬仕度が一斉に行われる。今はこんな情景は見られない。
 六花の結晶をした雪が空から舞いおりて来ると、子供たちは手を振り足を踊らせて飛び走る。大きく口をあけて雪を受けとめ、その感触を味わう。雪は降っては消え、消えては降りを繰り返し、その量が多くなると道路は泥水化して歩くに不便を覚える。こんなとき早く寒気が道路を凍らせて雪触けがないことを願う。一夜に二〇〜三〇も降り積もると、挨拶に「もう根雪でしょうか」という言葉が交わされる。根雪とは春先まで消えない積雪を言い、人々はいよいよ雪国の生活に入る覚悟を決める。
 降雪の度に家中の者が雪かき(じょんば―木製でスコップ型のもの)を持って除雪をする。または、むしろを敷いて上から踏み、圧雪して道をつくる。これは雪国に生活する者の習慣的マナーであった。街路の大通りは、馬そりが前に三角の板(ラッセル車のように)をつけて一筋の道をつける。家々の煙が黒々と立ち上り、人の行き交う数が多くなって朝の活動が始まる。
 時折、一日に一を越すような降雪もある。汽車も馬そりも動けず、人や物資の移動が止まる。人々は陸の孤島化した中で、雪のしまるのを待ち、耐え忍ぶ生活を送る。こんな場合が度々あるので、雪国の人々は米やつけ物、野菜、魚などを貯蔵する。土を掘り雪を固めると、それぞれ格好の貯蔵庫となる。雪と闘う半年は、粘り強い不屈さを持った北国人の性格形成をなし、物を貯え、質素倹約の習慣を身につけさせてくれたと思う。現在は文化が、また消費を美徳とした思想が、こうした特質を失わせていることが残念である。

  生活としてのスキー・スケート

 明治時代は欧化主義による体育と尚武的国粋主義による体育の両者が認められた時代で、日清・日露の戦争期に入りますますこの傾向を深め、心身に対する教育も熱を帯びた時である。雪中行軍は大いに志気を高め青年の鍛練に利用されたが、人跡未踏の雪中登山はその最たるものであったと思う。
 明治十年(一八七七)に札幌農学校(現北海道大学)教頭のクラークが、生徒を連れて手稲山の冬登山を試みているし、三十二年(一八九九)二月には独立歩兵大隊(後の歩兵二十五連隊)の雪中行軍を参観するため札幌の各校が藻岩山に登り、雪くずれによる遭難事故を起こした。北海中学校が四十年(一九〇七)ごろから毎年藻岩山の冬登山を実施している。当時、生徒はかすりの着物にはかまばきが多く、積雪腹部までもある中を飛び越え泳ぎ渡り、全身びしょぬれで、今思えば蛮勇とも言うべきである。
 子供も積雪の中に走りこんで、あとに続く者たちでいつしか細い曲がりくねった道が出来ると、その道の中を追いかけ鬼遊びに変わる。屋根から飛び降りることもやる。屋根から滑り落ちて出来た軒下の雪山を尻滑りをする。親に叱られても叱られても、次の日には再び同じことを繰り返す。雪だるまを作ったり、坂をこしらえたり、雪合戦に興じたりするさまを観察していると、雪は無限の遊びを子供に与え、創意工夫を引き出していると思う。
 冬の歩行は大変で、かんじきは手放すことの出来ない歩行具であった。そんな生活の中にスキーが紹介された。

 高田でのスキー 明治四十四年(一九一一)一月、高田において第十三旅団長岡外史は、オーストリアの武官テオドル・フォン・レルヒ少佐にスキー術を習うことにした。官尊民卑の観念の強い時代に、軍隊が主催し、一般大衆にも門戸を開き半強制的に講習員を集めて実施された。受講者は全国から集まり、帰国後は講師となって伝達をするので、スキーの普及は目覚ましいものであった。
 札幌でのスキー 明治四十一年(一九〇八)に農科大学(現北大)にドイツ語教師のスイス人ハンス・コラーがノルウェー式の二本杖スキーを紹介し、学生は大いに興味を深めてコラーの一台のスキーを借りて滑った。記録は確かでないが四十一年からだと思う。待つ間がもどかしくて、形が似ているからと豊平の馬そり屋にスキーを持って行き製作をたのんだという。恐らく重い不格好なスキーだと思うが、出来たものを着けて得意げに、そして試行錯誤を繰り返し練習に励んださまを思うとほほえましい。
 後にスキー発祥で論争が起きたが、軍隊という大きな組織が展開した高田を発祥の地としたいきさつもあった。
 旭川でのスキー 明治四十五年(一九一二)二月に、旭川第七師団に派遣されたレルヒに指導をうけた。高田の時と同様に、北海道の各連隊からと地方の希望者を含めて二七人が三週間の練習を行っている。三月二日に近文の半面山を登り、十四日には遠く美瑛山麓まで行軍を実施しているが、この研究会は道内スキーの普及や需要の高まりにあるスキー注文を促進し、オーストリア式とノルウェー式の優劣を論じ、各地の雪中行軍や登山を盛んにしている。四月十七日には第七師団でレルヒ中佐(昇任)とスキー研究委員長北川中佐を含む八人で蝦夷富士(羊蹄山)登山を実施し、日本空前の壮挙と報道された。

 しかしスキーの普及度はなんといっても、札幌、小である。同年十月小に、十二月札幌にそれぞれスキークラブが誕生し、練習会がしばしば行われた。その度に、レルヒに指導をうけた三瓶勝美中尉や中沢、門田少尉が、要請をうけて札幌、小へ出向して熱心な指導にあたってくれたその功績も大きくとりあげねばならない。この普及ぶりや練習風景、スキーの効能が毎日のように新聞に掲載された。雪の深い、冬季交通の途絶するのを憂えた、地方の人たちには強い印象を深めさせていただろう。山野、湖沼いたるところを跋渉し、ノルウェー・スキーの両杖が流行してからは軽快性が発揮されて、スキーの行程は延び競技化にも向かった。当時の民情としては、厳寒で零下一〇度もあれば、降雪中は家に閉じこもり勝ちになる。スキーをするためには薄着で戸外に出ることになり、全身運動で身体を鍛練して進取闊達の気を養うことが出来る。滑降には沈着と機敏な対応を必要とし、胆力と頭脳のち密さを育てる。スキー運動の教育効果も自覚した。積雪は今まで人を圧迫していたが、これからはこれを利用して積極性を高めなければならないと悟った。こうしてスキーは先ず冬の生活に密着した生活用具として発達がみられた。
 スキー利用が交通のために利用され、通学、郵便配達、電線修理、測量、林野の管理などで活躍する人の足がわりになった。
 スケート 北海道でスケートが始められたのは、明治十年(一八七七)に札幌農学校(現北大)のアメリカ人教師ウィリアム・ブルックスが自国から持って来たスケート靴で滑ったのが最初とされている。二十四年(一八九一)には新渡戸稲造が、アメリカから三足のスケートを持ち帰ったのを、学生たちが使用して盛んに滑ったという。
 三十九年(一九〇六)一月十二日の北海タイムス紙は、戦争で満州の山野を跋渉した者が、「アメリカの東北部にあるヴァーモント及び東ニューヨークの両州で、少年が冬季に用いる一本脚のそり(ジャンパー)を、北海道の雪中旅行によし」と勧めているのを紙面でとりあげている。また当時、美濃部俊吉(拓銀頭取)や松村松年(農科大教授)がドイツ、イギリスでの氷滑りを雪中娯楽法として勧めている。その点スキーよりも歴史は古い。
 札幌の中島の池、道庁の池、北大構内の池(工学部横にあった)をスケート場として利用していたようであるが、そのころは仙台で使用していた日本独特の下駄スケートが主であった。これはアメリカ製スケートを模倣したもので、明治四十年(一九〇七)ごろ諏訪湖で盛んに滑っていたものである。
 大正九年(一九二〇)に日本スケート会が誕生するまでに発展し、十年一月九日に札幌では野球協会から分離した札幌スケート協会が中島公園でスケートの開場式を行い、十一日スケート大会を主催している。競走のほかに熟練者によるフィギュアーの模範演技が披露されて非常なにぎわいを見せた。この大会で成功を収めた札幌スケート協会は大衆の傾向を集約しその後の指導体制をつくったわけである。スケート場が限られ、靴やスケートが高価で、あまり普及はみられなかったが、遊戯・冬季運動として展開されていた。
 下駄スケートは子供たちにとって唯一の冬の遊具で、幼児はゲロリー(ベッタ)を使用し、馴れると下駄スケートで、馬そりや人の歩みで固まった道路で遊ぶ。馬そりのうしろにつかまって滑るなど、車の無い時代なので危険も無く、子供の遊ぶ数も多かった。

  スキーの競技化と山スキー

 大正五年(一九一六)農科大水産学科教授の遠藤吉三郎が北欧留学から帰国した。彼は研究のかたわら、本場ノルウェーのスキー術を学び、スキーと新知識をもたらした。用具もレルヒの伝えたアルパインスキーの重い締め具に比べて、軽く簡易で両杖使用の行動自由なノルウェー式に変わっていった。遠藤は今一つジャンプを伝えた。独学で練習を続けていた学生大矢敏範は、遠藤の指導によって後輩の前でジャンプをしてみせたという。明治四十五年(一九一二)に誕生した北大スキー部が大正九年(一九二〇)一月二十五日に札間のスキー駅伝を主催した。若者はいつも全力をもってぶつかっていけるものを求めている。これは北海道で初めての本格的な競技会で、後に札中等学校スキー競技会、全国中等学校スキー大会へと発展する。
 一方、スキーを経験した者はその魅力にとりつかれ、友だちを集めてツアーへと発展していった。
 札幌鉄道局では大正十一年に『鉄道沿線のスキー好適地案内』を、鉄道省は大正十三年に『スキーとスケート』という冊子を発行して北海道のスキー・スケート地を紹介している。それでは札幌のスキーファンの利用地を三角山付近でジャンピングに励む手稲山付近の斜面を滑る円山の南斜面での練習に三分している。明治末期のスキー初練習場は競技開催場としての体面を整え、ツアーに出かける好適地に手稲、奥手稲、春香山一帯を示し、専ら初歩練習の場として円山南斜面を紹介しており、当時の様子がよくわかるような気がする。南斜面の向かい山はカラス山、ゲンチャンスロープ、温泉山(通称で現在は日本通運療養所や旭山公園になっている)などの種々のスロープがあり、足の馴れた者はここから藻岩山にも幌見峠にも登ったものだった。

  ヒュッテ

 手稲山頂から札幌市街を見る。石狩川や豊平川のうねりが日本海に注ぎ、白波が誘う先に遠く天塩岳の連峰を見る眺めは美しく、樹間を滑り降る粉雪の感触や、下から見上げる自分の滑り跡を快くうけとめる山スキーのだいご味も良い。しかし林間に厚い雪をのせて私たちを待っていてくれるヒュッテは一幅の絵である。スキーヤーには無上の安息の場である。
 ヒュッテで、ドラムかんを二分したようなストーブに太い樹木を投げ込んで食事の煮たきをしながら、ランプの明かりの下で語りあう山男の交わりは楽しく懐かしい甘さがあり、街で味わうことの出来ない素朴さがある。ヒュッテは北大がパラダイス、ヘルベチュア、空沼、無意根、奥無意根、長門の各小屋を建設。奥手稲には国鉄山の家が建てられた。小梅屋運動具店が天狗山に、小スキークラブが朝里にヒュッテを建て、定バス会社が峠の小屋、白樺ヒュッテを、定山渓鉄道が冷水小屋を、北海タイムス社が銀嶺荘をそれぞれ建設し、その他にも三つほどあった。

  戦後の札幌の冬

 北海道は戦争による爆撃破壊の損害が僅少であったため、既存の施設を利用することで立ち直りは極めて短期間であった。そして種々の行事が北海道に、それも札幌に集中して開催されるので、道民は他県他国の人を迎えもてなすことへの努力が大きかった。北海道を訪れる人には昔ながらの落ち着きとゆとりが、なにか古い物が持つ情緒のように漂うのを感じていただろう。冬は一面白雪に覆われて、家並みも道路も葉を落とした街路樹も簡素化されて広さを覚えたと思う。また戦後、近代的な大都会の出現によって、いつしか失われた自分のふるさとを慕う郷愁になって、思いを新しくしていたかもしれない。
 二十一年から正式に中学校・全道・宮様スキー大会が開催され、翌年は札幌スケート連盟の謝肉祭が、二十四年三月には国体スキー大会開催。二十五年二月には心の中に灯りを求めて札幌雪まつりが開催。二十六年十月から民間航空が再開されて他府県や諸外国との交流も激しくなった。二十七年に札幌中島野球場にスケートリンク造りをして、日米交歓アイスホッケー試合を行う。
 この成果を生かして、二十九年には男子世界スピードスケート選手権大会を円山の陸上競技場で開催した。本道初の国際的競技大会であったし、戦後初めてソビエト選手団の入国で国際親善の大きな役割を果たした。厳寒期に夜を徹してリンク造りに精進した裏方の努力と苦心はとても口では言い尽くせない。そして他国選手の体力と技術の優秀さを目前に見て、戦後十年のブランクや情勢判断の甘さ、時勢の移り変わりの激しさにがくぜんとした。
 昭和四十七年(一九七二)二月三日から十一日間、札幌人・道民が一丸となってオリンピック冬季大会の遂行に意を注いだ。おごそかに、華やかに、楽しく、和やかに、これは世話をする札幌人の心である。世紀の大行事であったが、無事に果たし得た安(ど)と成功の喜びは市民すべてが感じたことであろう。オリンピックを迎えるためにも都市構造が近代化し、諸外国に札幌の認識を深め、奉仕と協力の心に徹して毎日を送った。
 私はそれ以上に、高度のスポーツに心血を注いでいる選手の、未踏の世界に挑戦する姿に心が洗われた。苦痛を恐れ、汗を流すことを嫌い、危険を避ける無気力を非難する言葉を忘れさせてくれた。現実を離れ科学性を含む、動く美を感じた。それらが今までの大きな代償として展開されているのだと思った。国や人種を超えて、真理に向かう澄んだ姿である。スポーツを愛好する多くの人はそう感じたと思う。感激を残してオリンピックは去った。人々の世界に向ける目が広く見開かれ、和やかに、そして愛情を深めたことだろう。
 五十年代は飛躍した札幌を、いや北海道を誇りとしての生活が重厚さを増していくと思う。雪国は雪の特性の中に知らず知らずのうちに文化を高めている。

  冬の祭典

 さっぽろ雪まつりは、その歴史や規模において他の追従を許さない。五十五年は大通、真駒内両会場に二〇〇に近い雪像が並び、一〇カ国の国際雪像を加えて、外人観光客も多かった。北海道の冬の祭典は全道にくまなく、時を同じくして開催されている状態で、古いものから挙げてみると
 さっぽろ雪まつり 旭川冬まつり もんべつ流氷まつり 帯広氷まつり くしろ氷まつり オホーツク流氷まつり 大沼・函館雪と氷の祭典 とまこまいスケートまつり 白鳥まつり(北見市) 摩周樹氷まつり 登別温泉湯まつり ねむろ雪と氷の集い 氷雪の広場(稚内市) 層雲峡氷瀑まつり 遠軽冬まつり 支笏湖氷涛まつり
 いずれも氷、雪、光、色、音が交錯して、暗い冬のイメージを払い、雪国の躍進が高まりを見せている。全世界に省エネルギーが襲来して、北海道がこれに対処する姿勢は自己保存のためでもあるし、全国の範とならねばならない。ルーフヒーティング、スノーダクト方式、ソーラーシステムと必要に迫られて家屋の様式が変わる。冬の家屋をどうするかはまだまだ研究されるであろう。その中での暮らし方をいかにするか。民族はお互いに過去の生活の中に鋭い観察と思考を重ねて文化の興隆を進めてきた。
 生涯体育も冬の中に実施する方向を定めねばならない。一カ所のリフトで登り滑り降りるスキーはますます混み合い、スロープの狭あいを嘆くだろう。またそこに向かう車の洪水で事故の増発も起こる。この混雑を避けて、歩くスキーやスキーオリエンテーリングなどが盛んになったが、一歩すすめて白銀の峰に、白一色の広原に、自分の足で登り歩きして雪煙りを立てて滑る楽しみを体験しよう。
 これからのスポーツ実施の傾向は、家族ぐるみのスポーツが望まれている。冬季間は使用する人影も無いような公園で、冬のキャンプを家族でやるのも、自然の中で昔をしのび親子の対話の場所ともなる。ジェット機が飛び、新幹線が走る時代で地下資源が不足して太陽熱にたよらねばならない。北国人が冬季は南国に移動したり、都市上空をカプセルで包み生活することも不可能でなくなるかもしれない。たゆまず進む人知の中で、新しい社会を産み出さねばならない時代である。札幌は今、長期展望を掲げて生き生きとした活気ある躍進を目指しているが、それは開拓の祖先が荒漠とした原野の中に今日の札幌を築きあげた歴史と似かよったものを私は感ずる。


【参考文献】
『恵寮史』恵寮史編簒委員会(昭8・11・21)
山崎紫峰『日本スキー発達史』朋文堂(昭11・11・20)
『札幌市概説年表』札幌市史編集委員会(昭30・8・15)
『体育大辞典』不昧堂書店(昭31・9・10)
『日本百科大辞典』小学館(昭38・11・25)
榎本守恵・君 尹彦『北海道の歴史』山川出版社(昭45・4・5)
北海道新聞社編『北の天気』北海道新聞社(昭51・1・26)
瓜生卓造『スキー風土記』日貿出版社(昭53・9・15)
高橋 純『スキーのふるさとおたる』国体実行委員会(昭55・2・1)

第1章 スキー

1 札幌・スキーの歩み
大野 精七

   札幌のスキーの父はスイス人ハンス・コラー先生

 札幌にスキーが最初に持ち込まれたのは、日露戦争後の明治三十九年(一九〇六)、当時英国公使館付武官だったデルメーランド・キーフが北海道を視察した時に、札幌月寒の歩兵第二十五連隊の将校にスキーを寄贈したのが、初めてだったといわれている。キーフは、スキーが将来の冬季間の戦闘には欠くことの出来ない“兵器”であることを教えたかったのであろう。だが、どうした理由からかキーフはこの時、実地訓練は行わなかった。
 実際に札幌でスキーが始められたのは、それから二年後の明治四十一年(一九〇八)だった。農科大学のドイツ語講師として赴任したスイス人のハンス・コラーが、アルパインスキーを持参し、ヅダルスキーのスキー教本によってドイツ語教育をすると同時に、スキーの使用法を教えた。ところが、コラー先生は実技の方はさっぱりで、大学構内のクラーク博士の像があるスロープでも転倒するほどだった。
 学生たちは、このスキーをモデルにして、豊平橋近くにあった馬そり屋に“和製第一号”のスキーを造らせ、構内のスロープで練習を始めた。明治四十四年(一九一一)、オーストリアのテオドル・フォン・レルヒ少佐が、「日本スキー発祥の地」と呼称する高田で、第一回の講習会を開いたのに先がけること三年。農科大学構内こそ“日本スキー発祥の地”であるといってさしつかえないであろう。スキー発祥の地の本家は「高田」ではなく「札幌」だなどと、小さな事にこだわらないのは、道産子の大らかさとでもいえようか。
 大学構内“クラークの坂”でスキーが病みつきとなった学生たちは、やがて当時のただ一つのスキー場だった馬場牧場、ナマコ山などへ行って練習を行い、三角山へも足を伸ばすようになったが、滑っては転び、転んでは滑りで“七転八起”の“ヨチヨチ”スキーの域を出るはずもなかった。だが、北大のスキーはレルヒが持ち込んだオーストリア式の“一本杖”とは異る“二本杖”のノルウェー式ともいえるスキーで、その点からいっても札幌のスキーが、高田のスキーよりも数段進んでいたといえるだろう。
 明治四十五年(一九一二)二月、旭川野砲兵第七連隊付の将校として、レルヒ中佐が来道、約半年間旭川に在任した間に、将校たちにアルパインスキーを教えた。この講習会に参加して帰札した月寒二十五連隊の三瓶勝美中尉ら三人の将校は、翌三月に札幌郊外の月寒でさっそく“レルヒ直伝”のスキー講習会を開いた。参加者は農科大生はじめ多数で、この講習会を機に札幌のスキー熱は急カーブで上昇し始めた。このころのスキー場は、馬場牧場からナマコ山、木の山、そこから三角山ふもとにかけての波状地帯が主なものだったが、スキー人口の増加とともに次第に東南にも移動、宮の森、小別沢、それに円山南斜面、続いて双子山あたりもスキー場として脚光を浴びるようになった。

   スキー場とシャンツェ

 金具の先に大きなスプリング、靴の下には重たい鉄板をくくりつけて、「ギーコン・バッタン」と、スキーをはいて歩いていた創成期の“アルパインスキー”が、しばらく主流を成していたが、大正年代に入った大正五年(一九一六)農科大学水産学科の遠藤吉三郎教授がノルウェー留学から帰国、複杖(二本杖)のノルウェー式スキーを持ち帰り、本格的な“ノルウェー式スキー”を指導した。この遠藤教授のノルウェー式スキーは、金具と締め具から成っており、アルパインスキーより、はるかに行動が敏活に出来、テレマーク、クリスチャニアなどの回転技術の習得が容易で、単杖(一本杖)のアルパインスキーを“あっ”という間に押し去り、ノルウェー式スキーの全盛期となった。いわゆる“ホッケ姿勢”=滑降に際しての屈身姿勢=は、遠藤博士の造語で、ネコもシャクシもホッケ姿勢で滑る姿が見られたのもこの時代であった。
 三角山、ナマコ山周辺でクリスチャニア、テレマークで滑りまくっていた学生連中は、滑ることだけでは飽き足らず、次第に競技スキーへと興味を移し、農科大学スキー部の一行が大正四年(一九一五)の二月に、円山南斜面の練習場で平地滑走と距離競走、滑降競走、リレー、障害物競走などを行った。これが札幌における競技スキーの始まりだった。
 スキーが単に滑ったり、曲げたりするものではなく、“飛ぶ”こともスキー術の一つであると説いたのも遠藤博士で、スキージャンプにはジャンプ台が無ければ技術は進歩しないと力説した。こうした新説を聞くと黙ってはいられないのが学生の常、彼らはそれではと三角山のふもとに仮設の「シルバーシャンツェ」を造って、ジャンプの研究を開始した。二〇級のシルバーシャンツェに続いて、十五級のアルファーシャンツェが、三角山一帯に造られ、このあたりが札幌のスキーのメッカとしてスキーヤーが集まり、掘っ立て小屋の休憩所というより、豚汁などを食べさせてくれる“店”も出るようになって、スキー場としての形を整えてきたのも、この時代からであったろう。
 大正十一年(一九二二)になって、北大ジャンプ陣は、仮設の台ではなく固定したジャンプ台の建設を思い立ち、十三年十月シルバーシャンツェを改造、櫓を組んでアプローチを延長、スケールを大きくし、三〇級のものとして猛練習を重ねた。大正十五年(一九二六)の十二月、第五回全日本スキー選手権大会が翌年、札幌で開かれることとなった。ジャンプの本家と自認していた北大生を主流とする札幌のジャンパーたちは、シルバーシャンツェより、さらに規模の大きな“大シャンツェ”建設を札幌市に要請した。札幌市はこれにこたえてシルバーシャンツェよりも、もっと三角山に寄った地点に、アプローチ六五、ランディングバーン五〇、最大斜度三一度といわれた札幌シャンツェの建設に踏み切った。アプローチは全部櫓で組まれ、その高さ一〇、スタート台に立つと、目のくらむ思いだったとは、かつての名ジャンパー神沢謙三選手の話である。このシャンツェの設計は北大の広田戸七郎選手ら部員が当たり、ジャンプ王国にふさわしい、当時としては日本一のジャンプ台を完成した。
 大シャンツェの完成で、スキー大会ごとに三角山周辺は、数千人のスキーヤーが集まり、ジャンプ大会には約六、〇〇〇人のファンが観戦に詰めかけるほどだった。これも昭和三年(一九二八)の第二回サンモリッツ・オリンピック大会にジャンプの伴素彦(北大)、距離の札幌出身高橋(早大)らが派遣されると決定した“オリンピック熱”がそうさせたものだったろう。

   荒井山と大倉山

 昭和四年(一九二九)一月にノルウェーのヘルセット中尉ら三人が来道、荒井山でノルウェー式走法などを指導した。この時に、将来札幌で冬季オリンピック大会を開催するのなら、国際級の六〇シャンツェが必要になる。その場所はどこが良いかと探し回った末、現在の大倉シャンツェの場所を発見した。
 ヘルセットはこの時、札幌シャンツェは「着陸斜面も緩く、近代的ではない。四〇級のジャンプ台を新しく建設すべきだ」として、今の荒井山シャンツェの位置を指示した。札幌市ではすぐに着工、十二月に四〇級の櫓組みシャンツェを完成、前年の秩父宮さま、この年の高松宮さまの来道を記念し「荒井山記念シャンツェ」と命名した。この記念シャンツェの誕生で、各種大会が荒井山を中心に開催されるようになり、札幌スキー場の中心は次第に三角山から荒井山へと移って行った。
 小じんまりとした荒井山スキー場は、三角山に比べて市電の円山終点から近いという、足の便利さもあって、大いに市民に利用されるようになり、自分の庭のようなゲレンデは親しみ深いものとなっていった。一方、三角山は“市民スキー場”から様相を一変して、三角山自体の急斜面を開発、アルペン競技場の主会場として、札幌では貴重なスラローム、大回転の唯一のバーンとなっていった。
 また、円山南斜面は、西方に双子山の斜面を抱え、家族連れの楽しいスキー場として、特に札幌の西南地方の人々に親しまれていった。当時まだ“西山鼻線”の市電が開通しておらず、札幌・山鼻方面の南の住人は、荒井山、三角山方面のスキー行には、ほとんど双子山越えの“スキーツアー”で歩いて通った。それだけにスキー大会観戦をしない時には、ゆっくり、円山南斜面、双子山あたりで十分にスキーを楽しんだものである。札幌西南地区の学校のスキー遠足は、ほとんどが南斜面というのが当時の慣習のようになっていた。
 昭和三年(一九二八)の秩父宮、四年の高松宮、両宮さまのご来道を記念して「秩父宮殿下、高松宮殿下御来道記念スキー大会」が、昭和五年(一九三〇)から始まった。いまの「宮様スキー」のスタートであった。宮様大会の第一回、第二回大会は、荒井山に建設された記念シャンツェを中心に行われた。このシャンツェは、ヘルセット中尉が在札中に広田戸七郎らを指導し、それによって設計したもので、昭和四年十二月二十日に完成し、昭和五年一月十二日の記念シャンツェ開場記念スキー大会が“こけら落とし”となった。
 第一回の宮様スキー大会は二月の十五、十六日に行われたが、それまでに一月十八、十九日の全日本学生大会、二十五、二十六日、全道選手権大会、そして二月八、九日の全道中等学校スキー大会に、新装の荒井山記念シャンツェが使用され、距離競走のスタートも荒井山の下を使用、一躍スキー大会場としてクローズアップされてきた。
 このころのスキーは、ノルウェーのフィットフェルト式といわれた、スキー胴体の中心に穴をあけて金具を通したものから、木ネジで固定する金具に変わり、締め具も革から次第にスチール、あるいはスプリングのものに移行、スチールバンド、スプリングバンドが流行していった。距離レースのスキーも、金具は「ベリゲンダール」が一世を風びしていたが、これは靴のつま先の両側を左右から押える式のもの。おそらく発明した人の名をつけたものだったのだろう。
 昭和六年(一九三一)に大倉シャンツェが完成し、翌年一月十六日にシャンツェ開き、一月十七日に「第五回全日本学生大会」のジャンプ競技を行ったが、両日とも“東洋一の大シャンツェ”の豪快なジャンプを見ようと、二万人近くの大観衆が大倉シャンツェに詰め掛けた。六〇級と銘打ってオープンした大倉シャンツェも開場式は四〇、学生大会は山田四郎(北大)の四四に終わって、大ジャンプを期待して集まったファンをがっかりさせた。このころ、大倉シャンツェの登り口の宮の森がスキー大会の主会場となり、札幌ビールが経営した「スキーヤーズハウス」なども完成して、スキーヤーにとって楽しい休憩場となった。ここはまた、荒井山と三角山の中継点でもあり、両方のスキー場でスキーを楽しむ中間点のハウスとして、多くのスキーヤーに利用された。
 札幌円山の陸上競技場が完成するまで、この宮の森が距離競走の発着点となり、全道中等学校スキー大会の会場としても盛会をきわめていった。これは大倉シャンツェが日本競技スキーの中心となったためで、大倉シャンツェを克服すること、言い換えれば六〇級のジャンプを成し遂げることが、日本スキージャンプ界の課題でもあり、世界へ飛躍する足がかりをつかむことになるからだった。大倉シャンツェを中心として札幌のスキー大会が行われるようになり、宮の森スキー場、隣りの荒井山スキー場が市民の人気を呼び、とりわけ荒井山スキー場は、手ごろなスロープと交通の便利さで、市民スキー場としての声価を高めていった。

   円山競技場周辺

 昭和九年(一九三四)札幌円山陸上競技場が完成し、翌十年のシーズンから円山競技場が距離競走の拠点となって、ここを中心に三角山、神社山、幌見峠、盤渓峠をエリアとする距離コースが確立されていったが、大倉シャンツェのジャンプ競技の観戦は別として、距離競走の観戦は、それぞれに荒井山、三角山、あるいは南斜面などでスキーを楽しみながら、プログラムと首っ引きで、ひいき選手を応援することが、このころのスキーファンだった。円山陸上競技場を中心とした大会場は、一番息が長く戦後の四十年ごろまで続くことになる。
 ところで、ノルウェーのヘルセット中尉が来道した翌昭和五年(一九三〇)の三月に、オーストリアのサンアントンでスキー学校を経営していたハンネス・シュナイダーが来道した。シュナイダーは、アールベルグスキー術の権威としても有名だったが、それ以上に大正九年(一九二〇)狐狩りを映画化した「スキーの驚異」というフィルムによって、日本のスキーヤーに知られていた。シュナイダーが得意のアールベルグスキー術を駆使して三角山などで妙技を示し、札幌のスキーヤーたちに、基礎スキーや山スキーの真髄を披露した。この来道が契機となって、基礎スキーといわれた一般スキー術が大きな進歩を遂げた。

   昭和十五年の札幌オリンピックを返上

 昭和七年(一九三二)アメリカのレークプラシッドで行われた第三回の冬季オリンピックに栗谷川平五郎選手(札一中=明大)らが出場、安達五郎選手(札鉄)がジャンプに八位となってスキーファンの血をわかせ、札幌市民のスキー熱も年を追ってエスカレートしていった。昭和十一年(一九三六)第四回冬季オリンピック大会がドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開かれ、伊黒正次選手(札鉄)が七位を占めて、日本のオリンピック熱もますます揚、日本もオリンピック招致に乗り出していった。このガルミッシュ・オリンピックからアルペン競技が取り入れられ、日本の但野寛(札鉄)関戸力(現姓矢崎)両選手らは、即成のアルペン選手として出場した。もちろんスチールエッジのついたアルペンスキーを履いたのは初めてだった。欧州では既にスチールエッジとカンダハー締め具が全盛で、このころからわが国のスキー場にもスチールエッジのスキーが徐々に浸透し、ゲレンデスキーが次第に盛んになっていった。
 スキーの繁栄とともに、日支事変が拡大し、日本を取り巻く国際情勢は日増しに悪化していきつつあったが、こうしたなかで日本はオリンピック招致運動を展開していった。昭和十二年六月のIOC(国際オリンピック委員会)で、第五回冬季オリンピックを札幌で行うことが条件付きで決まり、六月十日に全日本スキー連盟から通知があって、六月十九日には全日本スキー連盟の小島三郎会長が来札、札幌決定を関係者とともに喜び合った。この日札幌市では決定祝賀の旗行列を行い、夜に入っては提灯行列で、“オリンピック札幌決定”を祝福した。札幌に冬季大会が決定したことは、第一二回のオリンピックが東京に決定したことからで、札幌での開催条件は「昭和十三年(一九三八)三月のIOC(国際オリンピック委員会)カイロ会議までに、札幌開催の準備が完了すれば、札幌開催を了承するというものだった。
 札幌では直ちに「札幌オリンピック実行委員会」を発足させ、委員長には石黒道長官、副委員長には三沢札幌市長と全日本スキー連盟副会長を勤めていた私が就任、事務所は札幌市役所内に置かれた。札幌ではオリンピックの施設計画として
 開、閉会式場は札幌円山陸上競技場
 スキー競技場は距離競走発着地点を札幌円山競技場とし、飛躍競技は大倉シャンツェを八〇級に改造、これと平行して北側に六〇級シャンツェを新設する。観覧席は主に自然の地形を利用し、四万人収容のものとする。練習用として別に二飛躍台を新設する。
 回転競技場は三角山を伐開し、観覧席二千人収容のものを新設する。
 滑降競技は手稲山にコースを策定する。
 スケート競技場は、屋内スケート競技場を中島公園内に一万人収容のものを新設、屋外スケート場も中島公園に新設する。
 ボブスレー競技場は、専門家のドイツ人、ツェンチッキー氏が来札して、札幌神社山に適地を実測し、全長一七一八、標高差一五〇、Sカーブ二カ所のほか、数カ所にカーブをつけたコースで、神社山東側にゴールするコースを設定、観覧席はコースのわきに数カ所設け、三千人収容予定。
 こうした札幌の準備をふまえて、翌昭和十三年(一九三八)フィンランドのヘルシンキでFIS(国際スキー連盟)会議が行われ、欧州スキー教師のアマ、プロ問題から紛糾し、結局、FISがIOCを脱退することとなった。このため、札幌オリンピックは、IOCカイロ会議で開催が決定したものの、“スキーなし”オリンピックとなってしまった。しかし、札幌の顔を立てたFISは、オリンピックと時を同じくして「国際スキー大会」を開くことで、“お茶”を濁した。このような関係者の尽力をよそに、中国大陸における戦争は拡大の一途をたどり、ついに昭和十三年七月、日本はオリンピックを返上することを決定し、札幌オリンピックは夢と消え去ってしまうこととなった。
 その後は急坂を転げ落ちるように、日本は狂気の戦争に突入、スキーも“錬成大会”“国防スキー”等の名のもとに行われ、市民スポーツとしての姿は全く見られなくなり、大東亜戦争と称した第二次大戦に突入、敗戦の渕へと沈んでいった。

   戦後、大きく発展した民間スキー場

 戦後の荒廃からいち早く立ち直るためには、スポーツの振興こそ大切と、スキーの復興も早々と行われた。その先陣を切ったといったら当たらないが、昭和二十一年に開発された藻岩の「米軍スキー場」は、敗戦の札幌市民にも大きな刺激となった。
 いまの“地崎団地”の緩斜面に、トラックのエンジンを使った「ロープトー」を造り、次いで北海道初のリフトも設備されて、米軍将兵や家族が喜々として雪にたわむれるのを、横目で眺めていたものだった。
 ここのスキー場には、外地から引き揚げてきた安達五郎、若本松太郎、それに小柳憲司らがインストラクターとなって、米軍にスキーを教えていた。進駐米軍は総合スキー場造成を目指して、この地域に小シャンツェ、大回転コースを設置した。小シャンツェは、現在の「仏舎利塔」のある進藤牧場の北斜面に、大回転コースは、藻岩山の北斜面の天然自然林を伐開した。
 “泣く子と地頭には勝てない”どころか、相手は戦勝国の米進駐軍、札幌の象徴ともいえる藻岩山を“左ケサ掛け”のように伐り開いて大回転コースを造ってしまった。米軍スキー場の閉鎖とともに使用を禁止し、自然の回復を図ったが、この“傷あと”は長く残っていた。三〇年近くたったこのごろ、ようやく旧に復したのは、札幌市民にとっても藻岩山にとっても、一番うれしいことである。
 戦前のスキーを引っ張り出していた札幌市民も、戦後三、四年を経て外国スキーをモデルにした国産スキーが出回るようになり、カンダハー締め具から、ラグリーメン、セミラグリーメンなどの締め具が全盛となり、ゲレンデスキーも花盛りとなった。さらに火をつけてゲレンデスキーを盛んにしたのが、小中、高校の“スキー学習”だった。これら学校の教師たちは、先を争って「指導員」の資格を取り、児童、生徒たちにスキーを教えることで、校内では貴重な地位を得ていった。こうした傾向が相乗関係となり、札幌ばかりでなく全道的に“滑るスキー”を盛んにしていった。

   三十一年、荒井山にリフト

 ゲレンデスキー指向のスキー場に必要とされてきたのは、当然リフト設備であった。その要望にこたえて設置されたのが、三十一年荒井山スキー場のリフトであり、北海道の第一号であった。以来、三十三年には藻岩山市民スキー場、次いでテイネオリンピアスキー場、定山渓三笠山スキー場、ふじのヘルスランドスキー場などが整備され、市民のスキー熱は年とともに向上していった。
 このころには、住宅事情からの土地問題で札幌近郊はどしどし宅地化され、三角山、ナマコ山、馬場牧場周辺はいつの間にか宅地となってスキー場としての使命を終えていった。だが市有地の荒井山だけは市民愛好のスキー場として、厳然としていまに残り、将来も永続するであろうことは、札幌市民にとって大きな喜びである。
 三角山などのスキー場が消滅した代替として、盤渓峠の奥に開発されたのが、盤渓市民スキー場と盤渓コバランドスキー場だったが、札幌オリンピックの男女大回転競技場、回転競技場となった手稲山の開発は、手稲山を一大スキー場とするきっかけともなった。このオリンピックスキー場の跡に造られた手稲ハイランドスキー場は、日本では珍しいTパーリフトのほか、パノラマ1号(一〇〇〇)パノラマ2号(一一〇〇)北壁(一二六二)パラダイス(五〇〇)のほか、第一回転リフトと山頂へのロープウエーが設備された壮大なスキー場となった。
 一方、先輩格のテイネオリンピアも続々と施設を拡充、千尺高地に第一(七〇〇)第二(八〇〇)のリフト、ロープトー(二〇〇)を設備、見晴台にはリフト(六〇〇)ロープトー(二〇〇)を備えて、手稲山は文字通り、札幌市民の一大スキーセンターとなっている。
 藻岩山市民スキー場もロープウエーばかりでなく、リフトも第四までの五本を備え、荒井山とともに“ナイター設備”を整えて、夜間スキーを楽しむ市民も、年ごとに増加している。さらに五十四年には朝里岳に「定山渓高原国際スキー場」が、札幌リゾート開発公社によって造成され、二千のゴンドラリフトを整備、札幌市民ばかりでなく、遠く本州方面のスキー客に利用されるようになって、テイネオリンピア、テイネハイランド両スキー場と並び、全国的なスキー場として知られてきている。
 五十五年のシーズンからはもう一つ、真駒内常盤に「真駒内スキー場」が登場した。道道支笏湖線から空沼岳コースに入って一足らずの西側の南向き斜面、ファミリースキー場として開発、ナイター照明も完備し、“第二の藻岩山市民スキー場”を目指して、札幌市民の要望にこたえる構えだ。
 このようにゲレンデスキーが全盛を極めた結果、“スキーは滑り降りるもの”としてだけに開発された“ダウンヒル用”のスキー、スキー靴は、足首をがんじがらめにしたプラスチック製のハイブーツと、ワンタッチの締め具となってスキー場を埋め尽くした。そのため、転倒した際の骨折事故が相次ぎ、小、中、高生の“学習スキー”として適切かどうかの論議も出るようになった。バスに乗ってスキー場に出かけ、リフトに乗って斜面を滑るだけのスキーが「学校体育」として、果たして効果があるのかどうかという疑問。このようなスキーが成長過程にある児童、少年の心肺機能の強化に役立っているのかどうか、スキーは本来滑るだけのものではなかったはずだ、という素朴な疑問が、最近にわかに高まった“健康づくり”“体力づくり”の傾向と合わせて「歩くスキー」が取り上げられることとなった。

   歩くスキーで健康づくり

 札幌市内でも三里小など山が遠く平坦地にある僻地校では、早くからスキーを履いて歩くことに注目、課内、課外教育の中で取り上げてきた。かつて札幌の山間地校だった盤渓小の児童のように、冬の間はスキーを履いて学校に通ってくる児童が多いところから、自然発生的に歩くスキーを冬の健康づくり、体力づくりに最高のものと考えるようになったのではあるまいか。このような傾向は“都会のモヤシッ子”を持つ都心の親や教師たちの間でも重視され、歩くスキーへの関心が高まっていったのも理の当然であった。
 これと並行して一般市民の間でも、北欧で愛好されている歩くスキーが再認識され、札幌オリンピック後の四十八、九年ごろから市内のあちこちで、スキーを履いて汗を流す市民の姿が見られるようになった。これに伴って歩くスキーのコースも、市内の有志によって真駒内公園、円山公園、中島公園などに造られていった。現在市が「歩くスキーコース」として認め、管理しているコースは、四十九年、最初に設けられた「真駒内桜山コース」をはじめ、真駒内公園には四コース、白石もみじ台には三コース、野幌森林公園には四コースなど、円山、中島、月寒、旭山、南郷などの各公園十九カ所に二七コースが設定されている。
 一般市民の歩くスキーへの関心が高まるとともに、歩くスキーを教えてもらいたい、という希望も高まり、五十年秋に「札幌歩くスキークラブ」が誕生して、スキー界のOB連中が指導に乗り出した。五十一年一月には「道民歩くスキーの集い」を、西岡の距離コースで行ったところ、約四〇〇人の市民が集ったが、この催しも年々盛大となり、五十五年には約一、三〇〇人の参加をみるほどに成長した。五十一年十二月には初の「歩くスキー講習会」を市内六カ所で開くなど、札幌歩くスキークラブが発展して組織した「北海道歩くスキー協会」(本郷精一会長)は、例年初心者講習会を開いて、市民の健康づくりの手助けを行っている。
 歩くスキーの人気を爆発的に盛り上げた一つに、フィンランドから来札して普及に努力したピヒカラさんを忘れることは出来ない。スキー冒険家の同氏はグリーンランド横断などの経験を生かして、歩くスキーの楽しさをPR、北欧人がいかに冬を楽しく過ごしているかを教えてくれた。同氏は札幌をはじめ名寄など道内各地でも講習会を開いて、この運動の発展に尽くしてくれた。
 その結果ではないが、宮様スキー大会にも歩くスキーパレードが取り入れられ、三笠宮寛仁殿下が先頭に立って歩かれるなど、年とともに盛んになっていることは、「歩くスキー」がスキーの原点であるだけにスキー人としてこの上ない喜びを感じている。

 2 ノルディックスキー
小原 正巳

 スキーが競技として定着する以前に、人類の生活の必要な道具であったことは歴史がこれを証明している。紀元前七世紀とも五世紀ともいわれる時代、われわれの先人はスキーの原点ともいえる「カンジキ」や、それより進化した「ストー」を使用して、冬の狩猟に使っていたことはよく知られている。
 北海道の先住民族といわれるアイヌ人も狩猟民族であり、樺太のギリヤーク、オロッコなどと同じに、冬はキツネ、アザラシ、テンなどの毛皮動物を狩って歩いたものであろう。その雪深い冬の間、雪に埋まらない歩行具としてカンジキの類似品が考えられたのは当然である。次にカンジキをはいて行動しているうちに、出来るだけ埋まらずに雪や氷の上を早く歩く、というより動物を追って走れるものを考えるようになったのであろう。それが次第にカンジキを長形化し、スキーに発達していったものと考えられている。
 ノルディックスキーが、アルペンスキーに先がけて発達したのは、狩猟民族の“必需品”であり、ノルウェー地方で著しく進歩を遂げたことからそう呼ばれるようになったものである。アイヌやギリヤークが狩猟に使ったスキーの前身「ストー」は、一前後のものが多かったようだが、現在のノルウェー式のスキーのような二前後のものになるには、平地の多かったスウェーデン地方のように三近いものもあり、山岳地方のノルウェーなどでは比較的短かい一・五ぐらいのものが多かったといわれている。それが長い年月の間に現在のような長さのものに変わってきたものといわれている。

   距離競走

 狩猟民族が獲物を追うために、行動の敏しょうなスキーを発明して、毎朝のように自分の仕かけたワナを見回りに行く。狩人各自の狩猟範囲は自然に決まっていて、出来るだけ早く自分の狩り場を回って獲物を回収するのが、日常生活だったことは容易に想像できる。そんな猟師同士が「オレの狩り場を、オ前は何時間で回れる。オレは三時間で回ったんだ」などの自慢話から「イヤ、オレならもっと早く回ってみせるよ」などの“足自慢”がエスカレート、「よし、ではオレと一緒に回ってみようじゃあないか」などという話になり、原始的な距離競走の原型が出来たのではなかろうか……というような想像をたくましくしてみたが、必ずしも的はずれの話ではないと思う。
 もう一つ、人間は本来何人か集まると競争心が自然発生的に出てくる。村の祭りで「力くらべ」や「足くらべ」が行われたのも本能的なものであったろうから、狩猟民族が冬にスキーを履いて“走りっこ”を始めたとしても不思議ではなかったろう。
 スキーの先発国ノルウェーでは弘治三年(一五五五)、今から四〇〇年以上も前に、既に競技会を開いていたとの記録があり、一八四三年ノルウェーのトロムソで初めて本格的な競技会が盛大に行われた。
 ではわが国、北海道、札幌ではどうであったかというと、大正三年(一九一四)二月二十二日、農科大学スキー部員により、銭函で二レースが行われたのが最初だとされている。だが、残念ながらこの時の記録は残っていない。翌大正四年(一九一五)二月二十一日、円山南斜面を中心に同スキー部の一大競技会が行われた。一・五の平地競走は旧札幌師範(現在の医大病院)から円山に向かって行われ、柳沢秀雄が一一分で走破したほか、二のディスタンスレースも行われた。このように初期の競技会はすべて東北帝大農科大学スキー部(現北大)のリードで始まったが、大正六年(一九一七)には、札幌―石狩間往復の平地滑降が行われた。これが北海道における“耐久レース”の初まりといってよいだろう。
 大正九年(一九二〇)一月二十五日に、わが国最初の中等学校スキー駅伝競走が、小―札幌間で行われた。スタートは小水産校付近で、ゴールの北大グラウンドまで約三〇を七区に分けて走った。参加は札一中、札師、北中、中、水、商、北商の七校で、激しいレースの末、小商業が三時間四二分三七秒で優勝。この駅伝が後の全道中等学校スキー大会を開催させる意義深い大会となった。
 「第二回中等学校札駅伝競走」は、大正十年(一九二一)一月三十一日に行われ、参加八校だったが、小商業が三時間三二分九秒で連続優勝を遂げた。翌大正十一年、中等学校駅伝競走は形を変え、区間を軽川大曲―札幌間の一〇とし、四区間に分けて走ったが参加校は八校、この年も商が一時間一六分で三連を成し遂げた。大正十二年(一九二三)一月二十八日の第四回中等学校駅伝競走では九校が参加し、小中学が五四分一八秒で初優勝を飾った。
 二月三、四日には小で「第一回全日本選手権道予選大会」が開かれ、距離競走は一、一〇の二種目が行われ、翌週の二月十、十一日の両日は小で「第一回全日本選手権大会」が開催された。
 競技は距離競走が一、四、一〇と八継走、それにテレマーク、クリスチャニアとジャンプで、樺太、北海道、東北、信越、関東、関西の六地区対抗とされたが、関西は出場しなかったので五地区対抗となった。これより先、道予選を終わった段階で北大勢は、この第一回大会を後援した小スキークラブが、スキー競技規程についての北大との約束を履行しなかったため、声明書を発表して絶交し、出場しなかったので、北海道代表は小勢だけの形となった。一中上野秀麿が五分五九秒、四は樺太の秋山広治が二七分四秒、一〇は樺太の島本孫一が一時間三分四〇秒でそれぞれ優勝、八リレーは商(野中十郎、畠山一二三、金田芳雄、児島小一)が四九分五秒で樺太、関東、信越を押えて初優勝を遂げた。
 第二回大会は新潟県高田で開かれたが、距離競走は早大生を主力とした信越勢に全種目のタイトルを奪われた。
 ところで、「第一回北海道選手権大会」は大正十三年(一九二四)札幌で開かれたが、全日本スキー連盟の誕生した大正十四年(一九二五)から、距離競走は四、一〇、一六と、一六継走の四種目となり、コースは国際的に採用しているノルウェー式コースとして、スタートとゴールを同一地点にすることとした。というから、このあたりから競技会としての体裁を整えてきたといえる。
 距離競走は大正十五年(一九二六)の第三回道選手権大会から二五、一〇、二四継走となり、俗にいう「耐久」「長距離」「リレー」の三種目に定着した。
 日本の距離競走が、耐久という名称で五〇レースを行うようになったのは、昭和三年にサンモリッツのオリンピックに参加した翌々年の昭和五年が初めてであり、一五、三〇、五〇の三種目に分かれたのは戦後の昭和三十七年からである。
 女子の距離競走が、北海道選手権、全日本選手権の正式種目となったのは、昭和二十九年からで、五、一〇の二種目に分かれたのは昭和四十年からである。北海道というより札幌においては、戦前の昭和八年札幌全市小学校スキー大会で、女子小学生が一競走を行った記録が残っており、この年の二月十九日に「第一回女子スキー競技会」が札幌宮ノ森で開催され、継走競技だけを行って、北海高女B(荏原和子、柏野カヨ、梶田キクエ、中村勝子)が二九分四六秒で優勝している。二、三の距離競走が行われたのは、昭和十年(一九三五)の第三回大会からで、全道の高等女学校が参加するようになった。二競走は六四選手が参加し、鈴木安子(旭川高女)が一〇分四五秒で、三は四八選手が参加、木村密子(名寄高女)が一〇分二九秒で一位となっている。だが、第七回大会の昭和十四年(一九三九)から再び継走だけとなり、第八回大会を最終に大会が無くなってしまったのは、まことに惜しいことだった。

   距離競走のルール

 コースについては、競技に参加する選手の体力や耐久力、それにスキー技術の本当のテストになるように設けなければならないとされており、自然の地形を利用した変化に富んだものがよいとされている。原則として平地、登り、降りが三分の一ずつ配置されなければならないが、余り長い登りや急な登り、非常に難しい危険な降りは、単調な平地とともに避けるべきだ。また、きつい登りを最初の二、三に設けてはいけないし、長い降りをゴールの前一に設けるのは好ましくないとされている。
 コースの距離は男子少年組が一〇、一五、成年組が一〇、一五、三〇、五〇で、女子は少女組が五、成年が五、一〇、二〇となっているが、日本では成年一〇と女子二〇は行っていない。
 標高差は五が一一〇、少年、女子の一〇が一五〇、男子一〇と少年一五は二〇〇、男子一五とそれ以上は二五〇となっている。極限登高といわれる一つの同じ登り、言い換えると途中に平地や二〇〇以上の降りのない登りっ放しのコースは、五で五〇、女子一〇以上、少年一〇、一五は七五、男子一〇以上は一〇〇を超えてはいけないことになっている。もちろんコースは決められたところを走らなければならないが、コース途中には関門が設けられてあり、関門員が通過者をチェックするようになっている。
 コースの標織は、レーサーが迷わないようにはっきりしたものを使用するが、全日本選手権では、女子五は青、一〇は紫、リレーは赤と青、男子一五は赤、三〇は黄、五〇はオレンジ、リレーは緑と黄を使用して、選手がコースを間違わないように配慮している。

   ジャンプ競技

 ジャンプ競技の起源は定かではないが、一説によると、北欧で冬の間、罪人を処罰する一方法として、ガケから突き落としたのが始まりだといわれている。しかし、記録にあるスキージャンプの起源は明治十二年(一八七九)ノルウェーのテレマークに住んでいたジョルジャ・ヘンメスウッドという靴屋の少年が、クリスチャニア(現在のオスロ)のヒュースビーの丘で二三を飛んだというのが、近代のジャンプのスタートとなった。
 わが国でスキージャンプが始まったのは、スキーが普及してしばらくたった大正五年(一九一六)に農科大学水産学科の遠藤吉三郎教授が、北欧の留学を終わって大学に帰任してからだといわれている。その翌年、中出身で農科大生だった大矢敏範が小商業の裏山あたりに台を作って、独学でジャンプの練習をしているのを知った遠藤先生と農科大スキー部員は、雪の台では不十分と板きれを持ってきて仮設のジャンプ台を造った。これが本邦初のジャンプ台だったと思われる。
 その後同大生の木原均、緒方直光、広田戸七郎、大矢敏範らによってジャンプ競技の研究が続けられたが、大正十二年(一九二三)北大スキー部では三角山ふもとに、固定ジャンプ台の「シルバーシャンツェ」を完成させた。この年の二月三、四日、第一回全日本スキー選手権大会の道予選が小緑ヶ丘で行われた。ジャンプには札幌を代表する北大からは南波初太郎、稲積猶、緒方直光、村本金弥、伴素彦、青山馨らが参加し、南波、稲積、緒方、村本、青山が二位から六位までを占めた。翌週同所で開催された全日本選手権には北大勢は棄権、第一回の全日本ジャンプは、小高商の讃岐梅二選手が一六〇一を飛んで優勝した。
 第一回北海道選手権大会は、大正十三年(一九二四)北海道山岳会が主催して、二月三、四日札幌で行われ、ジャンプ競技はシルバーシャンツェで挙行された。一位は一二四〇を飛んだ北大の青山馨、二位も北大の緒方温光が占めた。この年の全日本は新潟県高田で開かれ、ジャンプは緒方直光が二〇四〇を飛んでタイトルを獲得した。また同年二月二十七日、札幌で札幌中等学校ジャンプ競技会が開かれ、小中学が優勝している。
 この年の十月、北大生たちはシルバーシャンツェを大改造し、櫓を組んでアプローチを延長し、三〇級のシャンツェとした。これは高田、豊原など札幌以外の地に三〇級シャンツェが出来ており、ジャンプの本家札幌に同じくらいの台が無いのは、メンツにかかわるというところからの改造になったものだろう。この改造したシルバーシャンツェで、大正十五年(一九二六)の二月二十二日に北大スキー部のジャンプ大会が行われ、村本金弥が二八二〇の日本新記録を作った。
 大正十五年の第四回全日本選手権のジャンプは二月七日、樺太の豊原シャンツェで行われ、北大の伴素彦が一八・八点(二二二〇、二一七〇、二一二〇)を飛んで優勝、最長不倒は中出身の秋野武夫(東京薬専)の二五一〇だった。
 この年の十二月、第五回全日本スキー大会が札幌で開催されることに決定した。この大会に備えて札幌市では一大飛躍台を三角山に建設することとし、広田戸七郎ら北大スキー部員が設計し、アプローチは櫓組みで六五、櫓の高さ一〇、三五の飛距離が出るように造られた。
 この十二月二十五日、大正天皇が亡くなられたため、明けた昭和二年の第五回大会は中止となったが、翌昭和三年には第六回大会として札幌で行うことになった。
 ジャンプ競技はいうまでもなく新設の「札幌シャンツェ」で挙行した。だが残念だったのは、二月四日の夜半から降り続けた雪は三〇を超え、五日早朝から台の整備を始めたものの、着陸斜面の踏み固めが十分に出来ず、転倒者が続出した。北大の小林、村本、樺太の牧田、早大の富井らの名手もこの犠牲となり、試合中も吹雪と突風でしばしば競技を中断しなければならなかったのは、新設シャンツェの晴れのスタートとしては、恵まれたものとはいえなかった。
 この年から飛距離が五〇単位で計測されるようになったが、悪コンディションだったため待望の三〇ラインはオーバーできなかった。優勝は神沢謙三(北大)三一八・三一(二五、二七、二四)二位高田与市(豊原)三位大森数雄(豊原)四位杉村鳳次郎(北大)五位永井勝夫(網走)六位森山盛夫(豊原)で、ジャンプ王国北大の牙城に迫った樺太勢の進出には目を見張らされた。最長不倒は村本金弥(北大)の二八だった。
 翌昭和四年は北海道スキー界にとっても、札幌のスキー界にとっても記念すべき年だった。ノルウェーからヘルセット中尉をはじめ、スネルスルード、コルチルードの三人が来道、オリンピック用のジャンプ台建設、近代ノルディックスキーの指導を行ったことである。
 ヘルセット中尉は、来道に際して「私はこのたび秩父宮さまのご希望により、日本に世界的なジャンプ台を建設するとともに、ノルウェー式スキー技術を紹介するため、大倉男爵の招きでやってきました。私たちの努力が、日本スキー界の将来の発展に資するところがあれば、これに過ぎる喜びはありません」との挨拶を述べ、来道が秩父宮さまのオリンピック用シャンツェ建設とスキー指導への要請であり、来日が実現出来たのは大倉喜七郎男爵の尽力であることを広く北海道の人々に紹介した。
 このヘルセット中尉ら一行の来道で、日本スキー界は近代化へのスピードを急速に早めた。昭和四年十二月七日にはホルメンコーレンスキー連盟にならって、大野精七氏らが札幌スキー連盟を創立し、十二月二十日には、ヘルセット中尉の要請になるジャンプ台を札幌荒井山に建設し「札幌記念シャンツェ」と命名し、北海道のジャンプ界は四〇時代へと突入することとなった。記念シャンツェ建設と併行して大倉シャンツェの建設が着々と進行する中で、昭和五年(一九三〇)から宮様スキー大会が開始された。
 荒井山の記念シャンツェは、一月十二日に開場記念大会、続いて全日本学生大会、全道中等学校大会などが行われた。全日本学生大会は法大の新井昌典が優勝、全道中等学校大会は小島謹也がタイトルを握った。記念シャンツェは昭和五、六年の二シーズン、北海道スキー界のメッカとなったが、昭和六年十二月に、ヘルセット中尉の設計した「大倉シャンツェ」が完成、昭和七年(一九三二)から東洋一の大倉シャンツェに舞台が移り、日本ジャンプ界も世界に肩を並べる大シャンツェでの激突を続けることとなった。
 大倉シャンツェ開場式は一月十六日に行われたが、式後の初飛びでは浜謙二(札ツェンネ)長田光男(北大)が三四を飛んだだけで、万余の観衆をがっかりさせた。翌日は折から挙行中の全日本学生大会のジャンプ競技が行われた。だが、レコードは優勝した山田四郎(北大)の四四五〇に終わった。この記録は二月十五日の全道中等学校大会で軽く更新された。竜田峻次(中)が四七、四三を飛んで優勝、二位の小島謹也(札商)も二本目に四九五〇をマークしたが、五位に入った新人三年生の松山茂忠(札一中)は、二本目に五一五〇と国内で初めて五〇ラインを突破する大記録をマークした。
 この五一五〇を出発点として、大倉シャンツェを本拠地にした日本ジャンプ界は、昭和八年浅木武雄(中)五六と伸ばした。このころから大倉シャンツェは、アプローチのたるみを直線的に雪で補修するとともに、本格的な土盛り工事も行って、記録はぐんぐんアップしていった。七〇に達したのは昭和十二年の星野昇(北商)が宮様大会の二本目にマーク。そして戦前不滅の記録といわれた七九の大ジャンプが浅木文雄(北商)によって成就された。現在の“新大倉シャンツェ”でいうと一二〇ぐらいに換算される大記録といわれている。
 戦後は本格的な大倉シャンツェの相次ぐ改造で九〇級に変身し、三十二年佐藤憲治(東圧)が九〇の大台に乗せ、菊地定夫(クロバー)は五日後に九一と更新、一〇〇も間近かと思われた三十八年、菊地定夫(雪印乳業)は遂に一〇二と一〇〇ラインを突破した。その後一〇〇ジャンプ時代を迎え、菊地についで藤沢隆(余市=早大)笠谷幸生(余市=明大)青地清二(桜陽=明大)らが進出、札幌オリンピックを前に大倉シャンツェを根本的に大改造して、山容も改まるほど。この大改造を機会にK点(極限点)が一一〇となり、このレッドラインをはさんでのタイトル争いが続き、こうした笠谷を中心とする競り合いが札幌オリンピックのメダル独占につながったといえるだろう。

   ジャンプ競技のルール

 ジャンプ競技は飛距離と飛型の合計で勝敗を争う。九〇級ジャンプを例にとると、予定飛距離のTP、一〇〇を六〇点とし、一は一・四点で一〇二を飛ぶと六二・八点の飛距離点が与えられる。飛型点は五人の審判員によって、減点法で採点され、最高点と最小点をカットして中間の三人の点数を採点する。各人の飛型点の持ち点は二〇点でアプローチ(準備滑走路)で転倒した場合は〇点、ジャンプして転倒した場合は一〇点減点などの採点基準によって、審判員が点をつけるが、いまだかって三人の審判員に満点をもらい、六〇点をつけられたジャンパーは一人もいない。
 減点の指針となっている飛型審判指針を紹介すると、空中姿勢で伸びない膝折り曲げ過ぎた腰曲がった背中前傾不足不安定な身体操作あまりに上向きのスキーあまりに下向きのスキースキーの上下交差。
 以上のような例は減点の対象となり、次のように減点することになっている。
わずかなミスや空中前半で前掲の誤りがあってもすぐに直した時は〇・五〜四点。
空中全体にわたったミスや、後半に出た誤りが直されなかった場合は二〜四点。
また、着地動作も重要なポイントとなり、早過ぎる着地準備前傾の不足した着地弾力のない着地過度に上体を折り曲げた着地深過ぎる着地両足のそろった一足着地不安定な着地、またはその後の不安定、などが対象となる。具体例を示すと、
着地の際、または着地が原因の転倒は一〇点。
両手を雪面、またはスキー上面にふれて立ち上がった時は八点。
片手を雪面またはスキー上面にふれて立ち上がった時は二〜四点。
テレマーク姿勢のいろいろな変形は〇・五〜二点。
テレマーク姿勢ではないが、スムーズでバランスのとれた着地は二点。
テレマーク姿勢ではなく、低過ぎるか堅過ぎる着地は二点。
テレマーク姿勢ではなく、低過ぎるか堅過ぎ、両スキーも開いていて、クローチング姿勢(うずくまった姿勢)が残っているものは四点。
不安定な姿勢でアウトライン付近を滑った時は六点。
空中姿勢の最後に現れたミスを直さなかった場合は二〜四点。
以上のような例はそれぞれ表示したような点数が減点される。

   複合競技

 ノルディック・コンパインドといわれる複合競技は、本場ノルウェーではその優勝者を「キング・オブ・スキー」スキーの王様といって賞讃している。簡単にいうと「走る」ことと「飛ぶ」ことの両方を合わせた成績で争う競技であり、一五競走と七〇級ジャンプの両種目の総合競技であり、戦前は距離競走を前半とし、飛躍を後半に行っていたが、最近は飛躍競技を先に行い、距離競走をあとから行うように決められている。
 最初にコンパインドが行われたのは、大正十五年(一九二六)三月二十一日の北大の部内大会で、杉村麟太郎が一八・〇四で首位を占めている。正式種目として全日本などの各種大会に採用されたのは、昭和四年(一九二九)からで、この年札幌で行われた第二回全日本学生選手権には神沢謙三(北大)が一七・五〇四で優勝、全日本選手権も同選手がタイトルを握った。
 複合競技で思い出されるのは、昭和七年アメリカのレークプラシッドで行われた「第三回冬季オリンピック」で、栗谷川平五郎(札一中=明大)が二本目に惜しくも転倒して三位入賞を逸したことだろう。その後複合三羽ガラスといわれた久慈庫男(北中=早大)坂田時人(札商=慶大)菊地富三(樺太大泊中=明大)ら優秀選手が出、戦後は佐藤耕一(高=明大)藤沢隆(余市高=早大)板垣宏(潮陵=明大)谷口明見(札西高=札鉄)らと続いて、札幌オリンピックで勝呂裕司(札幌)選手が五位に入賞を遂げることにつながったわけである。

   複合競技のルール

 TPを七五とすれば、一一・六点。距離競走で首位の走者が五八分三〇秒で走ったとすれば、この走者に二二〇点差が与えられ、二〇秒離された五八分五〇秒の選手には二一七点、一分離された選手には二一一点の得点が与えられる。だから前半ジャンプで二〇点離されても、後半距離で二分一四秒離すと〇・一〇差で逆転できるという計算が、複合の距離計算表から引くことが出来る。
 複合では距離の首位が二二〇点、ジャンプの首位はそれ以上の点数を取れる可能性もあるので、一分で九点差しかつかない距離競走より、差が大きくつきやすいジャンプ競技を、どちらかというと重視しているように思われる。

 3 アルペンスキー
中川 信吾


   アルペン競技の草分け時代

 オリンピックでアルペン競技が初登場したのは、昭和十一年(一九三六)の第四回冬季大会の行われたガルミッシュ・パルテンキルヘン(ドイツ)の大会であるが、ヨーロッパで初の公式戦が開かれたのは昭和三年(一九二八)オーストリアのサンアントで開かれた「アールベルグ・カンダハーレース」が最初といわれている。
 日本にこの滑降、回転競技であるアルペン種目が全く新しい競技として公式レースとしてお目見えしたキッカケを作ったのは、ガルミッシュのオリンピックである。このオリンピックには日本からはノルディック種目である距離、純飛躍、複合競技の三種目の選手が派遣され、アルペン種目の選手は含まれていなかった。もちろん、この大会では新複合競技として滑降、回転競技が加わっていたことは明らかであったが、当時日本の国内では昭和五年(一九三〇)にオーストリアからハンネス・シュナイダーが来日して全国にその妙技を披露したのが動機になって“山スキー”より一歩進んだゲレンデスキーともいうべきスラロームを中心にしたアルペンスキーが普及しだした。
 北海道で初めてこの種目がいわゆる公式戦として姿を現したのは第四回のガルミッシュ・オリンピックの前年である昭和十年(一九三五)三月十日のことで、円山の奥のゲンチャンスロープ(現在は一部が旭山公園になっている)で行った「第一回スラローム大会」である。この大会のプロデューサーは、当時丸井百貨店運動具売場に勤務していたオーストリア人のクヌート・オールセンと、第三回冬季オリンピック大会(レークプラシッド)の一八距離競技で一二位になり、日本のスキーを世界に示した栗谷川平五郎、当時の北海タイムスのスポーツライターだった岩根秀夫である。
 オールセンは来日前からヨーロッパでアルペンスキー競技の経験があったらしく、また栗谷川も外国遠征でアルペンスキーを見学しており、岩根も文献などで勉強していた。そしてこの大会を主催したのは「札幌スラローム倶楽部」であった。
 この大会に出場している矢崎力(旧姓関戸、札鉄、ガルミッシュ・オリンピック代表、現在北海道歩くスキー協会副会長、道スキー連盟顧問)新妻正一(札鉄、第一一回全日本スキー大会回転三位、現プレイばんけい総支配人)の話によると、このスキークラブは同大会を開催するため、にわかに設立したもので、大会顧問には野口喜一郎、広田戸七郎、三瓶勝美、大野精七、小国孝臣、河合裸石など日本スキー界育ての親ともいうべき人々が名を連ね、役員長には岩根、競技部長にオールセン、審判長に栗谷川の三氏。審判主任は西儀四郎、通告主任に駒木根公記、出発主任に小野寺将、時計主任に天近豊蔵らが名を連ねる豪華メンバーで、そのほか当時のスキー、陸上競技関係の大先輩が世話役をかっていた。
 当時のプログラムによると大会運営費用の大部分を出したのは現在の丸井今井デパートの前身である丸井百貨店をはじめ岩井靴店、石井運動具店、三越百貨店であった。
 大会はA、Bの二本のコースがセットされ、Aコースは一五関門、BコースはAコースの途中から分かれた一三関門。コースの長さは定かでないが優勝したのは関戸力選手(札鉄)で合計タイム一分四〇秒八(一本目一分二秒六、二本目三八秒二)二位山田四郎(北大OB)三位高杉直幹(札幌ク)四位片山(札鉄)五位新妻(同)と並んだ。このほか参加選手にはジャンプ選手の浜謙二(山印)伊黒正次(札鉄)安達五郎(同)関口勇(北大若老)、さらに距離選手の三瓶重成(現姓本郷、北海道歩くスキー協会会長、札幌バイアスロン連盟会長)のほか但野寛(札鉄、ガルミッシュ・オリンピック代表)坪川武光(早大OB)宮崎兼光、高橋貞助、三瓶進(以上、椴松ク)、犬石秀雄(札幌ク)のほか、ただ一人の女性小国貞子(名寄高女)ら、スキー界のみならず陸上、バスケット、テニスの選手など六八人が出場した。
 翌昭和十一年二月十六日に札幌市三角山裾にあった札幌市最古のシャンツェといわれているシルバーシャンツェ横のスロープで開かれた「第一回全国国鉄スキー競技大会兼第三回札鉄管内スキー大会」が北海道としては全国的スケールの回転競技である。
 この大会は一本勝負で関門は一五双旗、もちろんセッターはオールセンだ。新妻正一選手が四八秒で優勝、二位は矢北幸雄選手(札鉄)の五〇秒。この二月十六日という日はちょうどガルミッシュ大会の最終日であった。
 さらに昭和十一年には本格的なアルペン競技が休むひまもなく札幌を中心に開かれている。三月一日には北海タイムス社(現在の北海道新聞社の前身)主催による「春香山滑降競技大会」。三月十四、十五日には小新聞主催の「第一回滑降、回転競技大会」が札幌岳で滑降競技、札幌市荒井山で回転競技を行い、四月三日には北海タイムス小支局主催で「第一回スラローム競技大会」が小天狗山で開催されている。
 春香山滑降レースは標高九〇六の頂上から札国道にある十万坪(地名で現在の小市桂岡)に至る全長約四千。関門は二カ所、前半は樹林の間を通る急斜面で、雪が深いため、滑りながら方向を転じることは困難なところがあり、数回キック・ターンを必要とし、コースの中間に約二〇〇の平地というよりも、むしろ緩い登りコースが含まれ、この地点をいかに早く走るか、ストックで押し切るかが勝負の分岐点となった。結局優勝はランナーの三瓶重成(札鉄)が七分三九秒で一位、二位も三瓶のライバルであり、名ランナーの安藤稔(北大)が七分四五秒で続いた。四位までがランナーで占めたが、上位四人ともいずれもレース用で参加していた。
 札幌市荒井山の大会の模様は当時の新聞紙上に、「冬季オリンピック競技の白眉とうたわれ、新たな人気の焦点を占むるにいたった滑降と回転競技技術を促進し、オリンピックへの登龍門たらしめんと……。荒井山頂上より決勝点にいたる難関を突破するスキー技術の妙技を発揮し、軽快に、また大胆に回転する競技は観衆の目を驚かし、本道のスキー技術の向上に力強い感銘をあたえた……」とある。
 札幌岳で行われた二回目の滑降コースはほぼ頂上の千台地から定鉄沿線滝ノ沢の札幌岳登り口までの夏道を利用した約四千で行われた。コースの中間には約三〇〇の平地があるため、この地点で腕力にものをいわせてストックで押し切った者が上位を占めた。ちなみに所要タイムを紹介すると、壮年一位の鈴木選手(椴松ク)一三分五一秒、少年は小島選手(ホッパネ、早大)一〇分四六秒、成年は新妻選手(札鉄)の九分五〇秒。関門は二カ所だけだった。
 小天狗山でのスラローム大会には一七〇人が申し込み、少年、成年の区別なしの競技でスタート順は抽選で決められていた。一位になったのはゼッケン一〇四番にスタートした若本松太郎選手(ホッパネ、札鉄)の一分二〇秒八(一本目三六秒四、二本目四四秒四)、兄の若本宇之吉選手(札鉄)も同タイムの一分二〇秒八(一本目三六秒二、二本目四四秒六)だったが、二本目に上位になった弟の松太郎選手が優勝となった。この大会にはジャンプ用、エッジの付いた本格的なアルペンスキー、レース用などいろいろで、結局はアルペンスキーを履いていた弟が勝ち、レース用で出場した兄が二位となった。
 このアルペン競技の草分け時代ともいうべき時に開かれた数多い大会の出場メンバーの中には距離競技、ジャンプ競技の選手が中心で、戦前、戦中、戦後の全日本スキー選手権でを競った名選手の名前が連なっている。
 オリンピック帰りの関戸力、但野寛をはじめ、当時長距離で実力者でありながら予選でワックスに失敗し三位となりオリンピック代表を逃した三瓶重成のほか、昭和十年の第一〇回中等学校スキー大会の長距離でゼッケン一番でスタート、終始深雪の中を走り通して堂々二位に入り、札鉄時代は全日本の長距離で活躍したばかりでなく、新複合で名をはせた中川信利(札商、札鉄)、札商から早大に進み新複合で常に上位を占めた由月清夫、耐久の山口靖夫(早大)梅田十士夫(明大)、箕輪正治(小製缶)、ジャンプ陣では浅木文男、星野昇(明大)菅野駿一(小高商)浅木武雄(小製缶)木村隆一(早大)奥村末男、新井晶典(法大)杉村鳳次郎(北大)アルペンの松浦末男(ホッパネ)柴田信一(小ク)大野英男(早大)小島鉄弥(ホッパネ)矢倉安太郎(北大)成田進(手稲鉱山)らが出場している。

   札幌が生んだ名選手たち

 北海道のアルペン競技が札幌を中心に大きく成長した理由には、“草分け時代”に私費を投じポールを買い手作りの旗で競技会を開催していた先駆者たちの功績であるが、札幌で生まれ“サッポロ”の名を全国に広げたのは、昭和十三、四年ごろから戦中、戦後の昭和三十年ごろまでの十数年もの長い選手生活を保ち、全日本選手権、全日本学生スキー選手権、国民体育大会スキーなどビッグ・ゲームで活躍した若本松太郎、奥村末男、伊藤文男、佐藤清選手の名を忘れることは出来ない。
 若本は円山の双子山で生まれ、“ジャンプの天才少年”といわれ、青年時代に入ってからはジャンプのほか身長一五〇の小さな体に二三〇の長いスキーで実に見事なスラロームを見せた。昭和十三年、札幌三角山を舞台に展開した第一六回全日本回転競技で関口(北大若老)小島(ホッパネ)野崎(早大)中川(札鉄)大野(早大)矢倉(北大)などの優勝候補に大差をつけて優勝したのをはじめ、第一七回、第一八回の全日本では純ジャンプで三位になるなど、両種目の“軽わざ師”として注目された。戦後の宮様スキー大会(昭和二十二年、第一九回)の純ジャンプ青年組で一位、同年の全道選手権では大回転でも優勝するなど、三〇歳を過ぎるまで輝かしい足跡を残した。
 若本同様、小学生時代(現円山小)から札幌商業二年までジャンプ一本で進んでいた奥村は三年生からアルペンに転じ、第一七回全日本選手権(昭和十四年)では回転は若本についで二位、滑降は三位に入り、中学生(五年)にして初の全日本新複合のチャンピオンとなった。戦後に入り全道選手権でもアルペン競技が採用された昭和二十三、四、五年の大会では三年連続して新複合に優勝するという輝かしい偉業も樹立した。
 若本同様にスラロームに天分を発揮したのが伊藤文男だ。札幌光星商業時代の昭和十七年の第一三回全道中学校スキー大会で二位になったのがキッカケで、彼の長い選手生活がはじまった。戦争というブランクがあったが、戦後法政大学に進み二十三年の第二六回、二十四年の第二七回の全日本選手権で、新複合で二、三位を占め、同年の学生スキー選手権大会では滑降、回転の二種目を圧倒的な強さで優勝、アルペン競技界で猪谷千春(東京)水上久(小築港駅)湯浅栄二(法大)とならび全国の第一人者となった。当時オリンピックへの日本復帰が許されていたなら、当然日本の代表に選ばれていた。このことは奥村も同様だろう。三十歳台に入ってからも昭和二十七年の第三〇回の全日本で滑降二位、回転三位というすばらしい成績をあげ、三三回の全日本選手権までの長い間、常に優勝候補の一角にあげられていた。
 佐藤清も奥村選手同様“練習の虫”という努力家である。全日本ではついにタイトルを得ることが出来なかったが、常に斎藤貢(早大)金丸(東圧)杉山(長野電鉄)伊藤、園部(法大)などとを競った。国体では青年組大回転で一度、壮年組では二連勝を樹立。全道選手権でも大回転に二度、滑降でも二度優勝している名手である。身長一八〇の豪快なスラロームは他を圧していた。
 多田修(北海=早大)広瀬亘孝(北海=法大)も三角山バーンで育った。両選手は昭和二十七年の全道選手権から頭角を現し、多田は二十七、八年の全道大会大回転少年組に優勝、広瀬も二十七年大会の滑降で優勝した。共に大学に進みアルペンでを競い、多田は学生スキーでは回転で一度優勝したが、ついに佐藤と同様、全日本ではタイトルを手中に出来なかった。しかし回転は強く当時全盛の斎藤貢、園部勝、猪谷、金丸(東圧)などと優勝を争った。そしてちょうど巡り来た第八回スクォーバレー・オリンピックの日本代表に選ばれた。
 このあと札幌オリンピックまでの長い間、北海道からは気田義也、玉井武、野戸恒男、福原吉春、千葉晴久、増原亀市、瀬田一成、沢村昭博、吉田猛、斎藤博、鈴木兼二、曽慶健一、村田潤、伊藤敏信、沢口学、石倉宏一、井上恵三、見谷昌、柏木正義、五十嵐一彦、岡田幹夫など数多くのスラローマーが国内はじめ外国で活躍したが、このうち札幌生まれは鈴木、曽慶、斎藤、沢口ら少数にほかならない。
 このように往年の面影が消えていた札幌のアルペン界に、昭和五十四年になって千葉一之選手(札第一高)が現れた。千葉は五十四年の第五七回全日本の大回転で海和、沢田、児玉などオリンピック代表を相手に一〇位に入り、五十五年の全日本では回転八位、大回転では高校生でただ一人三位に食い込み、その年の国体少年組大回転、全国高校回転でそれぞれ優勝し、一躍全日本のトップレベルにまで実力をつけてきており、今後の活躍が大いに期待できる。
 女子ではアルペンの草分けともいうべき沖節恵、加藤清江(旧姓・末武)の両選手を忘れることは出来ない。沖は昭和十二年北海道ではじめて女子のアルペン競技が生まれた第二回滑降回転競技大会で回転、滑降の二種目に勝ち、その後は新人の養成にあたりながら、アルペン女子競技役員として活躍した。沖選手の現役時代は短かったが、加藤は昭和十三年の第三回滑降回転競技大会で回転四位、滑降一位で頭角を現し、その年の第一六回全日本で滑降一位、回転二位となり、ついに新複合に初優勝。以来、第一七回は二位、そして現役を去ったが、昭和二十三年宮様大会に大回転が取り入れられてから「札幌レディースクラブ」を作り、自ら陣頭に立ち現役高校生の寺岡、金丸などに交じり昭和三十三年まで常に二、三位の座を守った。
 加藤の作った札幌レディースクラブから佐藤陽子、加藤陽子、遠田ミツ子という全日本級の女子選手が生まれた。なかでも遠田は昭和三十一、二年の全日本スキーの滑降競技に二連勝、回転でも優勝を遂げる金字塔を立てた。
 遠田が引退してからは札幌のアルペン界は小勢の大滝はつえ、稲川和子、細井ミヤ子、西村蓉子、村山八千代、岡崎恵美子などに歯が立たず鳴りをひそめていたが、昭和五十一年になりニセコから札幌第一高に学んだ大道和子(現デサント)がアルペン界にデビュー。昭和五十四、五年の第五七、八回の全日本選手権で大回転に二連勝の偉業を立て、ワールドカップに出場するまでになった。大道の後輩である札幌第一高校からは石川園代、榎並ユカリ、石川ちかみという有望選手が続き、なかでも石川園代の素質はすばらしいものがあり、五十五年の全日本では大道に続いて回転競技で準優勝を遂げオリンピック代表の座も夢ではない。

   競技の見どころ勝負どころ

 滑降競技 この競技は“勇気と決断の競技”といわれ、スキー本来のスリル、スピードの連続である。二分足らずのこの競技を無事終わってゴールインした時の肉体的疲労、精神的苦痛はあらゆるスキー競技のうちでも最大といえる。時速一〇〇で飛ばしているときのターンでは脚部に二七〇〜二八〇の負荷がかかる。コースの選択、風圧との戦い、スピードに対する恐怖との戦いがあるからだ。
 勝つための第一の条件は、いかにして風圧を避けるかにある。全コースを最も風圧の少ない卵型フォームで完走することだ。プレジャンプをすると滑走面に風圧を受け、自然に揚力がついてしまい、空中にいるわずかの時間でも風圧でスピードが落ち、同時に着地のショックも大きいだけにバランスを崩すことになる。
 最近スタートの場面で、よく力のこもったスケーティングをしているのは、スタートのダッシュをつけるためである。ばく然とスタートするより一秒程度は有利になる。千分の一秒を争うとなれば、このスタートダッシュがアルペン競技では大きなキーポイントになる。
 回転競技 この競技は四〇〇〜五〇〇の距離に七五双旗以内の旗門を誰よりも早く、くぐり抜くには斜度と旗門の位置、スピードのコントロールなどすべてを下見の時に頭にしっかり入れておかなければならない。回転は“記憶力の勝負”ともいわれているほどだ。ありとあらゆる技術を要求している連続旗門をセットするように決められているから、一瞬も気がゆるせず、人一倍すぐれた集中力が必要である。一定のリズムをつかみポールすれすれの最短距離を通過する者が勝つ。深い角度のターンのエッジングと、外脚から内脚への素早い切り替え、角度の浅い場合のパラレルシュヴング、ストックの使い方など、回転競技の興味は尽きるところがない。
 大回転競技 この競技は、デリケートな回転競技と、豪快な滑降競技の中間的な競技である。大回転競技は北海道のような本格的滑降コースの無い土地では特に盛んになった。道選手権大会では大回転競技で全日本の滑降、回転の予選を兼ねる場合が多い。最近の大回転はスピードを要求する滑降競技的な要素が強くなってきた。男子は全長一、二〇〇〜一、五〇〇、女子は八〇〇〜一、二〇〇または一、三〇〇の距離で行い、関門数も三〇前後に決められている。回転競技の約二倍の距離に対し旗門数が半分以下とあれば、必然的に滑降競技の要素の強いものになる。いかに風圧を少なくし、過度なエッジングをせず、大きな半径のターンをスピードを落とさずにタイムのロスを防ぐかが勝負どころになる。
 ワックステクニック 回転競技コースは完全に堅く踏みかためられたコースであり、常に連続回転を行うためワックスに左右されることは少ないが、滑降競技のように標高差が七〇〇から一、〇〇〇もあるコースでは、気温、雪温ともスタート地点とゴール地点では六〜八度の差がある(地上から一〇〇上空になるほど、一〇〇ごとに約一度気温が低い)。従って、どの地点にワックスを合わせるかが問題になる。下塗りはゴール付近に合わせ、上塗り用ワックスはそれなりに合わせなければならなくなる。
 翌日の天候を予想して準備して塗ったワックスがスタート間際に新雪が降ったり、予想したよりも気温が大きく上下すると番狂わせが出る。ワックステクニックもスキー操作の技術以上に重要ともいえる。

   スキー用具の移り変わり

 スキー板 ヨーロッパにおける古代スキー時代(板、締め具とも)、明治末期に日本にスキーが渡来した当時の一本杖スキー時代、ガルミッシュ・オリンピック直後、そして現在と大きく四つに分けられる。
 大正から昭和初期にかけてはイタヤが全盛であったが、ガルミッシュ・オリンピック後はヒッコリーが台頭しはじめた。当時、輸入材のヒッコリースキーを履いている人は、五、六十人参加の大会でも数人に過ぎなかった。ヒッコリーは材質が堅く滑らかで、しかも弾力に富み、水分を吸収しにくいというスキーの板としては理想的なものであった。昭和十三、四年ごろはヒッコリーの板だけで一〇〜一五円前後(当時の中学卒の初任給は三〇〜三三円)という高級品で選手個人では買うことは全く困難なシロモノだった。この当時、オリンピックから持ち帰ったエッジをまねして、幅約一、一片の長さ約三〇の軟鉄を鋲でハメ込んだいわゆるエッジ付きのスキーなどは極めて少なかった。
 戦後になって合成樹脂が発達し、スキー板に化学製品のゾールが使用されはじめる昭和三十年ごろまでこのヒッコリーが幅を利かせていた。ヒッコリー材が世界的に不足となり、カナダからの輸入もむずかしくなってから、イタヤなどの木の表面と滑走面を合成樹脂で囲む張り合わせの合板時代が一〇年ほど続いた。昭和四十年代に入って、この合板にさらに改良が加えられ、エッジも一本ものがハメ込まれ、スキー板のアンコの部分にはいろいろ化学製品を組み込み、その表面と滑走面にグラス繊維のゾールを張りつけた現在のスキーとなった。もちろん昭和四十年ごろは一時的に金属製のメタルスキーも出現したが、重いのと弾力性に乏しいなどの理由で生産されなくなった。
 金具(締め具) 昭和十二、三年になってアルペン競技が行われるようになった当時、最も多く使用されていた金具は、スキー靴の幅に合わせて木ネジで取り付けた金具に、カガトが自由にあがる“フット・フェルト”(現在も自衛隊が使用している)という革製の締め具をつけていたものが主流であった。アルペン競技に出場する選手は前傾しやすくするためスキー靴の中心部下のスキー板の横に締め皮を固定させる“ミミ”という小さな金具を取り付けていた。当時、一部ではすでにオリンピックから持ち帰っていた“カンダハー”締め具も若干輸入されていたが、これが一般化されたのは国産化が進んだ昭和十四、五年ごろからである。
 このカンダハーは戦後の昭和四十年ごろまで幅広く使用されていた。理由は調節によってはカガトが上がり山スキーにもOKだし、カガトを固定すれば競技用にもなったからである。現在のようにワン・タッチ式あるいは、ステップ・イン式のセフティ締め具が出はじめたのは昭和四十五、六年ごろからである。現在は転倒してスキーが体から離れた時にスキーの流失を防ぐブレーキ付きが出回っている。
 ストックは籐のつるで作ったリングに竹のポールからはじまり、合板竹製、スチール製、そして現在はジュラルミンのポールになった。リングも競技用の場合は風圧を避けるのと、深雪を押す必要がなくなったため、現在では直径七〜八と小さくなり、形もタマゴ型となっている。

   アルペン競技のルール

 三種目のコースの長さ、標高差、旗門数などすべて男子、女子、男子も少年の最高限度などをはじめ、コース全般のレイアウトが細部にわたって規定されている。コースの中に人工的な障害物の禁止。観衆をよろこばせるような曲芸的技術を必要とする部分の禁止。
 このほか回転競技、大回転とも二回滑り、出来るだけ別々のコースで行う。回転コースはシングル、ダブルの旗門でつなぎ、コースの四分の一は三〇度を超える急斜面をもち、正常のテクニックで巧みな技術と正確なターンを必要とするスピード回転が出来るように作ること。大回転コースの地形は波状に富み、コース中に大、小の曲線をもつターンを巧みに組み入れなければならない。
 滑降、回転、大回転の共通ルールは次のように定められている。
* 全日本選手権または全日本スキー連盟が公認する競技会(例えば全日本学生スキー選手権)では、スタートラインとフィニッシュライン間は一秒の百分の一まで計時できる電気時計を用いること。千分の一で計測したタイムは毎回ごとに四捨五入して百分の一秒で公表する。別々に作動する二系統の電気時計を設置した場合は手時計は除いてもよい。
* スタート合図はスタート一〇秒前に“一〇秒前”あるいは“用意”の警告を与え、スタート五秒前から「五、四、三、二、一」とカウントしてからゴー(ヨシ)の合図をする。スタート、フィニッシュともそのラインを横切った瞬間に計測が開始されるが、スタート時に“ヨシ”の合図より三秒以上早く横切った競技者は不正スタートとして失格になる。
* スタート順は距離、ジャンプ競技ともに後の方ほど有利で、ランキングの上位のグループほどスタートは後になっているが、アルペン競技の場合はこれと全く反対である。ランキングの上位者ほど早いスタート番号が与えられる。全日本選手権の場合は、前二年間の全日本選手権、A級大会の成績によって全日本スキー連盟が各競技者に与えたポイント(得点)によってグループが決められる。ポイントの無い競技者は最終グループに入る。従ってポイントが上位の時は有利なスタート順を得ることになる。優勝候補が入るいわゆる「第一グループ」に限ってはベスト一五人とされ、このスタート順はグループ内抽選によって決定する。第二、第三、第四グループは参加者数を均等に分けるが、スタート順はあくまでもポイントの上位の者が早い番号になる。大回転、回転など二回滑る競技では、二回目のスタート順は一回目の一〜五位を除いて一回目の成績順による。一〜五位は二回目のスタート順を、五位が一番、四位が二番、三位が三番、二位が四番、一位が五番とする。
以上がアルペン競技選手に直接関係のあるルールだが、このほかスキーの長さ、幅、トップの高さなどに一定の規定がある。また滑降では、二〜三日前に行う公式練習に参加しない場合、スタートで第三者の助力(後押し)を受けた場合、公式スタート時刻にスタート出来ない場合、前日またはレース開始前に閉鎖されたコースで練習したり、決められた競技用具ルールに反した場合、いずれも失格となる。

【参考文献】
全日本スキー連盟『スキー年鑑』
赤坂富弘『北のシュプール』(昭49・12)
札幌スキー連盟『宮様スキー大会五十年史』(昭54・6)
新妻正一、矢崎力両氏の保存資料

第2章 スケート

 1 札幌・スケートの歩み
久保 信

 2 スピードスケート
河村 泰男

   スピードスケートの歴史と発達

 スケートの故郷はオランダ
 北欧諸国の自然条件がスキーに最適であると同様に、オランダは自然環境が氷上を滑走するのに適していた。オランダの運河は、交通に利用されているが、冬季の降雪が少なく、すっかり結氷した運河は、スケーターたちの最良のスケート場として発達していったことは当然で、オランダの国技的スポーツとなったのである。
 初期のころは、馬骨で作られたスケートを紐で靴にしばりつけ滑っていた。しかし、その滑り方は、槍や、先の尖った竿を使って氷面を突き、その反動で滑る程度だったが、これに興味を誘われ大いに流行した。しかし、骨製のスケートによる氷滑りは、近代のスピードスケーティングの技とは、似て非なるものである。
 次の時代は、木製の底に固定された鉄のブレッド(刃)の付いた用具となる。このスケートが一二五〇年ごろ、あるいはもっと以前にオランダで出現したらしく、正確なことはわかっていないが、これが近代的な感覚のスケートに発達していったといえよう。
 一六七六年ごろから、凍結した運河をスケートで通って町から町へと周遊することが盛んに行われ始めたという。
 一八〇五年、スピードスケートの最初のレースが開かれ、短距離コースで、しかも女子だけが一三〇人程度参加して人気を沸かせた催し物だったという。一八二三年から六四年に至る間、各地で直線コースだけのレースが行われ、男子だけの競技会に変遷し、またコースもU字形の一六〇から二〇〇とされた。そして、競技方法は、走者二人ずつ一組ごとに行い勝敗を決めた。
 オランダ人は、このような競技会を近隣諸国へ紹介し普及させた。
 一八九三年アムステルダムで開かれた第一回男子世界スピードスケート選手権大会の初代世界チャンピオンとなったのは、オランダのJ・エデンだったが、七九年を経た一九七二年開催の第一一回札幌オリンピック冬季大会で、三冠王となった男子選手A・シェンクや女子レースで大活躍したS・カイザーおよびA・ケレンデルストラのような世界的名選手がオランダから輩出した。このことはまさに「氷上オランダ」のもつ長い伝統の中から生まれたスケーターたちであり、決して偶発的ではない。オランダこそ「スピードスケートの母たる故郷」と自他ともに認められている。

 世界選手権大会の発足と歩み
 一八八五年、第一回国際スピードスケート大会が、ノルウェーのハンブルグで開かれ、トラックの長さは三八〇〇で、ノルウェーのアクセル・ポールゼンが優勝した。
 また、国際リーワルデン大会のトラックは八〇〇、コース幅一〇で、一つの曲走路をもつU字形だった。オランダ選手が優勝したが、A・ポールゼンは、曲走路がきつ過ぎるとして、レースを拒否したという。
 一八八六年のハンブルグ大会は、一六〇〇と三八〇〇の二距離に、A・ポールゼンが優勝し、ノルウェーのため気を吐いている。
 一八九二年の夏、各国のスケート団体および国単位に限定しない、代表的なスケートクラブによって組織された、国際スケート連盟(ISU)が結成され、同連盟主催で、一八九三年(明治26)第一回男子世界スピードスケート選手権大会が初開催された。
 女子の第一回世界大会は、男子大会に遅れること四三年後の一九三六年にスウェーデンのストックホルムで開かれ、日本の女子代表選手も初参加した。
 大会は、一九〇二年、六年、七年の三回中止され、また第一次世界大戦の七年間、第二次大戦も七年間と都合一四回の大会が流れ中止された。大会回数は一九八〇年(昭和55)で第七四回大会を重ね数える伝統と歴史を飾る権威ある大会となっている。
 大会の記録の変遷をみると、五〇〇の第一回大会が五一秒〇だったのに対し一九七六年大会に作られた現在の大会記録は、三八秒二二である。一二秒七八を短縮更新するのに、なんと八六年の歳月を経ている。また、長距離一万の第一回大会記録二〇分二一秒四は、五分三八秒二九短縮され現在の大会記録一四分四三秒一一(五〇〇平均タイム四四秒一六)にまで向上躍進をみている。“記録は破られるためにある”ので、今後も記録は更新変遷していくだろう。

   札幌における競技会の今昔

 大正・戦前の時代
 大正九年(一九二〇)札幌野球協会スケート部が設立されたが、翌年同協会から分離して「札幌スケート協会」の創立をみ、中島遊園地の池リンクで第一回スケート競技会が開かれた。
 大正十三年一月、北大主催による第一回全道中等学校氷上競技大会が、中島遊園地の池リンクで開催され、西田信一(札幌工業)南部忠平(北海中)小柳一誠(札幌二中)有地(ただし)(札幌工業)の選手たちが活躍した。
 昭和二年、道内各地のスケート団体が参画して「北海道氷上競技連盟」が結成された。そして、翌シーズンの一月二十一、二十二両日、札幌中島公園池リンクで第一回北海道氷上競技選手権大会が開催された。
 成績は、苫小牧の浅倉選手が、五〇〇を五八秒六、一五〇〇を三分三八秒二、五〇〇〇は一二分二六秒と三距離に首位を占め、二〇〇〇リレーも、苫小牧チームが四分二一秒九で優勝するなど、まるで“苫小牧デー”の観を呈したという。
 昭和十三年一月、札幌中島公園内の特設リンク(地上撒水)で第九回全日本氷上競技選手権スピード競技大会が初めて開催された。この大会は、昭和十五年(一九四〇)札幌で行われることに決った第五回冬季オリンピック大会(昭和十三年七月、大会返上中止)の準備的試金石の意味を持ったものとして注目された。
 男子では、苫小牧工業の内藤晋選手が急激に台頭してきたのが目立ち、女子は苫小牧の躍進が著しく、もはやこの状態では、スケート王国満州も安閑としてはおられないものを感じた。男子選手権は崔龍振(明大)が二連、女子は満州の江島八重子(奉天高女)が三年連続制し選手権を獲得した。(「スケート年鑑」より)

    札幌の世界選手権大会と国体
 札幌オリンピックは別として、札幌にとって最大の競技大会は、昭和二十九年(一九五四)一月中旬、札幌円山公園陸上競技場特設リンクで開催され第四八回男子世界スピードスケート選手権大会であった。参加六カ国、選手一九人は、従来の大会からみて、いささか寂しかったが、大会は盛況を極め、万余の大観衆は、国際競技のもたらすふん囲気と、最高の情景に深い感激と印象を受けた。彼らは、おそらく何時までも大会の感銘を忘れないだろう。
 この世界選手権大会の直後、同リンクで第九回国民体育大会スピードスケート競技会が開かれた。開幕前日の大降雪を排除し、無事に挙行したが、北海道勢の成績は、各部競技いずれも長野県に及ばず二位を喫し、地元ながら苦杯をなめた国体だった。

 札幌オリンピックの実現
 第一二回東京オリンピック大会の決定に付随して、冬季オリンピック大会は日本に開催優先権があった。
 昭和十二年(一九三七)六月に一九四〇年第五回冬季オリンピック大会の札幌開催が決定され、翌年三月確認された。ところが十二年七月七日、蘆溝橋事件の勃発に端を発した戦争の拡大により十三年七月十五日の閣議で、東京オリンピック大会および札幌オリンピック冬季大会の開催返上が決定発表された。
 結局、大戦のため一九四〇年と四四年の両オリンピック大会が中止されている。
 終戦後、札幌では昭和二十九年(一九五四)の世界選手権大会および国体以外の大きな規模のスピード競技会の開催は皆無だったが、いよいよ二度目の「冬季オリンピック札幌誘致」という国際的最大の荷物を、札幌は引き受けることになった。
 昭和三十八年、札幌は一九六八年第一〇回冬季オリンピック大会誘致に、二五年ぶりに再度立候補し、運動に乗り出した。ところが、“われに利あらず”フランスのグルノーブルに決定し、札幌は苦杯を味わい敗退した。
 昭和三十九年十二月、札幌は再立候補を決定して名乗りをあげ、本格的運動を行った。その結果、三度目の正直で遂に昭和四十一年四月、一九七二年第一一回冬季オリンピック札幌大会が決定され、東京オリンピック大会から七年四カ月後、聖火が再び東洋の一角、雪と氷の百万都市「さっぽろ」に、あかあかと燃えあがることになった。
 昭和四十五年、真駒内自然公園内に、世界に誇る不等高楕円形の稜線を描く、ユニークな真駒内屋外競技場が完成した。そして、同年十二月、“こけらおとし”の全日本選抜スピードスケート競技会が開催され、男子五〇〇〇小林茂樹(専大)七分四七秒七、一万博文(同)一六分一六秒八と、ともに好タイムを出して気勢をあげた。
 明けて二月中旬、世界の強豪たちを迎えた「札幌国際冬季スポーツ大会」が、同リンクで「プレオリンピック」として華々しく開催され、かつての世界選手権大会以来、一六年ぶりの国際スピード・レースであり、冬季オリンピックのホスト都市として札幌の街は沸いていった。
 最良記録は次のとおりだった。
 男子  五〇〇 H・ベルエス(スウェーデン) 39秒40
    一〇〇〇 J・グラナト(スウェーデン) 1分22秒4
    五〇〇〇 A・トロイッスキー(ソ連) 7分54秒5
 女子  五〇〇 V・クラスノワ(ソ連) 45秒25
    一〇〇〇 T・アベリナ(ソ連) 1分33秒0
    一五〇〇 J・シュット(オランダ) 2分28秒0
    三〇〇〇 J・シュット(オランダ) 5分4秒8
 以上の成績タイムおよび大会の運営は、一シーズン後のオリンピック本番に重要な参考資料、データを提供した競技会だった。
 昭和四十七年(一九七二)二月、全世界の視聴を集めた待望の第一一回札幌オリンピック冬季大会が開幕した。スピード競技は、一九カ国、選手一七三人(男=一〇九人、女=六四人)が参加して盛大に行われ、成績記録は五〇〇〇を除き、七距離に通算二八個のオリンピック新が真駒内の氷上に刻まれ、世界の名選手たちは“札幌オリンピック”を、より晴れやかに飾った。
 昭和四十九年一月下旬、真駒内リンクで第二九回国体スピード競技大会が、二〇年ぶりに開催され、北海道は見事スピード競技に完勝の誉を獲得した。
 札幌オリンピックの後、五シーズン目の昭和五十二年十二月、札幌オリンピック記念第一回真駒内選抜スピード競技大会が、日本スケート連盟、北海道新聞社の共催のもとに開催の運びとなり、すでに三回の大会を重ね第三回大会(昭和五十四年十二月)では、女子五〇〇を除き七個の大会新が樹立され、“真駒内の氷”は、氷上日本の北の「氷の道場」となっている。

   札幌出身の名選手たち

 札幌からスピードスケーターとして、全国的に活躍した名選手には、内藤晋、新保鋭、佐藤尚二および佐藤千栄子があげられる。

 内藤(ないとう) (すすむ)
 内藤晋の厳父は、札幌スケート界の草分け時代から札幌スケート協会の役員であった関係で、少年時代から氷滑(こおりすべり)の遊びに興じた。氷上の鬼ごっこやアイスホッケーなどを大いにやり、少年名スケーターとして上達していった。
 昭和十年二月下旬、冬季オリンピック日本代表選手団が苫小牧でキャンプを張った折、同市郊外の大沼で、オリンピック選手記録会が開かれた。内藤は父に連れられ、その記録会の特別レースに出場し五〇〇を五一秒〇の好タイムで滑り、将来性が注目された。この機会が、内藤少年(高小一年)をして大選手への道に精進させた。
 内藤の主なスケート競技歴を紹介すると、
  昭和11・1 全道選手権大会総合優勝(高小二年)
    13・1 全国中等学校氷上大会(八戸)五〇〇優勝(苫工)
        第九回全日本選手権大会(札幌)五〇〇8位・47秒8
        一五〇〇6位・2分36秒0
        第五回札幌オリンピック冬季大会代表候補選手に選ばれる
 14・4 渡満、満州炭鉱株式会社入社
 15・1 明治神宮スケート競技会五〇〇優勝(満州代表選手)
 15・6 東亜競技大会(東京・大阪)自転車競技出場活躍(満州代表)
 17・4 日本大学に入学
 18・1 全国学徒氷上競技大会五〇〇優勝(日大)
 18・12 学徒出陣
 20・9 終戦、維内より復員
 22・2 第一回国民体育大会スケート競技会五〇〇・一五〇〇優勝
     以後、毎回国体に出場、常に五〇〇優勝
 23・4 北海道新聞社入社
 25・1 第一八回全日本選手権大会五〇〇45秒3優勝
 26・2 一九五一年・第四五回世界選手権大会五〇〇優勝、43秒0日本新
 内藤は、世界選手権大会の遠征から帰国後、不運にも病のため、ついに昭和二十七年(一九五二)開催のオスロの第五回冬季オリンピック大会に参加を断念し活躍の機を逸し、本人はもとより氷上日本にとって大きな痛手だった。
 内藤は、昭和十年ごろから二十六年まで約一六年にわたり、五〇〇の第一人者としてその貫録を保持し、世界選手権競技五〇〇に第四五代目の優勝者の栄冠を獲得し、日本選手として初の名誉を飾った。そして、東洋のスケート先進国日本に最高の事績をもたらす殊勲をうち立てた名選手内藤晋の活躍は大きい。

 新保(しんぼ) (さとし)
 内藤と同様に国際競技に出場した選手は、札幌商業高校出身の新保鋭である。新保は、昭和三十六年軽井沢の第一〇回全国高校大会の五千に見事優勝しその頭角をあらわした。明大に進んで昭和三十七年の第三〇回全日本選手権大会に初出場し、総合成績三位となり、翌年の第三一回全日本大会では特に長距離に力量を発揮し、遂に大会出場二度目にして堂々の日本選手権を獲得して、注目された。そして、同年軽井沢の一九六三年第五七回世界選手権大会に日本代表選手として出場し、貴重な国際レースを体験した。
 翌シーズン欧州に遠征、インスブルックの第九回冬季オリンピック大会に出場、全距離に出走敢闘した。またヘルシンキの第五八回世界選手権大会に出場するなど、札幌出身のスケーターとして見逃せない。ことに冬季オリンピック選手となったのは新保が第一号である。

 佐藤(さとう) 尚二(しょうじ)
 佐藤は、札幌商業高校で新保の後輩である。昭和四十五年浅間の第一九回全国高校大会の五千と一万の二距離に二位を占めて札幌商高のため活躍した。
 また、同年八戸の第一八回全日本二部選手権大会五千に優勝、引き続き美鈴湖の第二五回国体の高校一万に一六分五秒七のシングルトラック日本新を樹立し気を吐く。さらに同年苫小牧の第三八回全日本選手権大会に初出場し、五千と一万に三位となり長距離の強味を発揮し注目された。
 昭和四十六年春明大に進学し、同年十二月富士スバルランドの第四四回全国学生大会五千二位。同年浅間の第四〇回全日本選手権大会は、総合成績九位。引き続き日光の第二七回国体一般一万決勝で見事優勝を飾り、本道のため気を吐いた。
 昭和四十八年日光の第四五回全国学生大会一五〇〇に首位を占め明大のため尽くした。
 佐藤は、以上の活躍が認められて、「スポーツの優秀な成績を収めた者」として昭和四十五年度第九回北海道スポーツ表彰受賞に浴した。

 佐藤千栄子(さとうこ)
 札幌出身で女子スピードスケート選手として全国的に活躍したのは、札幌市立高女出の佐藤千栄子が第一号である。
 昭和二十二年戦後初の八戸国体で、五〇〇と三千ともに三位入賞。翌昭和二十三年盛岡の国体では五〇〇に優勝して本道のために気を吐いた。その国体の直後、同リンクの第一六回全日本選手権大会で総合得点一九二・四九点をあげ、堂々日本選手権を獲得して札幌に錦を飾った。
 次年、蓼の海の第一七回全日本大会は暖気で中止流会となった。日本大学に進学し、昭和二十五年苫小牧の第一八回全日本選手権大会で、総合成績首位を占めて栄えある二度目のチャンピオンの座を獲得した。
 佐藤千栄子は、このように札幌出身随一の女子スピードスケーターとして、全国的に数々の立派な成績をおさめ、札幌スケート史上を飾った有名選手である。

 以上の四選手のほかに、全国学生氷上競技大会等で活躍した札幌出身の選手では、戦中時代に本田義延(北海中=明大)、戦後は山崎久男(札幌西高=明大)の二選手があげられる。
 以上でもわかるように、札幌は苫小牧や釧路、帯広の各市と比べると、まことに有名選手の数は少なく、選手層は貧弱な状態にある。立派な真駒内オリンピックリンクの存在性を無にすることのないよう、若いスケーターの輩出を切望したい。
 昭和五十五年から開催の、札幌市中学校大会を活躍の基盤とし、またスピードスケート少年団の普及拡充を図って、近い将来に、第二の内藤選手が誕生する時代が、札幌に到来出現することを期待する。

   競技の解説とみどころ

 競技の解説
 スピード競技は、次の三種類に区別しそれぞれ異った競技規則によって実施される。
 ダブルトラック・レース(DTR)、シングルトラック・レース(STR)、およびショートトラック・レース(SHTR)
 まず、DTRは、オリンピック競技をはじめ、世界選手権、日本選手権、全国学生選手権、および全国高校選手権(予選レースはSTR)の各競技会で実施されている。
 STRは、主として国民体育大会スピード競技に採用実施されている。
 SHTRは、主として屋内リンクで、一周の距離は一二五以下のシングルトラックでコース幅は四・五七二以下であってはならない。短距離レースでは、走者最高四人までとされている。
 DTR 一周四〇〇の二重、区画されたコースを、一組二人だけで競うタイム・レース。
 ゴール判定は、走者のスケートが決勝線に触れるか、それに到達したときにその距離を完了したものと認め判定する。(規則61条) 走者が、終了寸前に倒れて、スケートが決勝線に達した場合は、走者がトラックの外にあっても、スケートが決勝線の垂直面に達した瞬間にその距離を滑り終わったものとみなす。
 交差路での事故については、万一両走者の間で接触、または妨害行為が発生したときは、内側から外側に向かって滑走している走者に生ずる事故の責任(加害)がある。(71条)
 二人一組の、組み合わせ方は、出場走者の間で抽選し決定する。一組ごとにレースを行い、全走者のタイムによって成績順位を決定する。(70条)
 総合競技(選手権競技)は、全部の距離を完走し、かつ過半数の距離に一位を得たものを勝者とする。(83条) だれも、過半数の距離に一位を得ることができなかった場合は、総得点の最も低い(良い)者を勝者とする。(83条)
 得点数の計算は、すべて五〇〇を基準とする。すなわち、五〇〇の得点はタイムの秒数をそのまま得点とする。例えば、三七秒六五は三七・六五点。その他の各距離ごとの得点計算は、それぞれ得たタイムを五〇〇単位に換算し、その秒数が、その距離の得点数となる。例えば、一五〇〇一分五八秒一〇なら一一八・一〇秒で、そのの三九・三六七点(少数第四位は四捨五入)が得点となる。(85条)
 STR ダブルトラックの内側一周距離を使用し、単一コースによるオープン・レースである。すなわち、数人の走者が一斉にスタートして集団のレースを行う。
 ゴール判定は、集団の走者をゴール際で判定するが、走者の手、または腕を除いた身体の一部分が、決勝線に触れるか、または到達したときに、その距離を完了したものと認め判定する。(61条) 走者が、決勝線の直前で倒れた場合も、同じ取り扱いで判定する。したがって、DTRのようにスケートによる判定はない。
 責任先頭制については、一五〇〇以上のレースに採用される。出走者全員に「責任先頭回数」を課する。(78条) 一走者に課する回数は、行われる距離による責任先頭判定個所(判定線)の総数を入賞者の数で除した数とする。ただし、スタート直後および決勝線直前の個所は判定から除かれる。(78条)
 責任先頭を課した距離の順位は、責任先頭を果たした走者を優先し、到着順を決定する。先頭を果たさなかったものは、得た回数にかかわらず到着順とする。判定線での通過判定は、決勝線の判定と同じ方法で行う。

 レースのみどころ
 DTRのみどころは、なんといっても、一組二人だけのタイム・レースなので、通告員の発表する両者のラップタイム(一周ごと)を聞きながら、その距離の所要タイムを予想し、また大会記録などのラップタイムと比較しながらの観戦は、興味のあるものである。
 両走者は、セパレートコースを滑走するので、一周ごとに、交差路区間で内、外とコースを変える点。また両者間の力量(速度)差を知ろうとするならば、第二曲走路を出て、正面直走路へ差しかかったときの開き(距離差)を見ると判明する。(一〇二ページの図参照)
 また、総合競技で、二日目に行う短(長)距離の組み合わせは、前日のタイムの良い者から二人一組と、組み合わせる。つまり、力量の接近、伯仲したもの同士のレースが展開され興味をそそる。(87条)
 以上の諸点が、DTRの妙味であり、観戦の醍醐味である。とにかく、一発レースに自己のベストを尽くし切ることになり、DTRこそスピードスケートの正統派といえる。
 STRのみどころは、DTRとは性格を異にしている。単一コースを集団で、一斉にスタートを切り出走するオープン・レースである。従って、直ちに相互間にレースのかけ引きが行われ混戦となる。そして、勝負にこだわり、トップを出走するより、相手の後方を滑走する方が有利であるから、牽制意識がはたらきタイムを無視したレースが行われる。
 そこで、責任先頭制を実施して、その弊害を予防、除去している。しかし、その責任先頭の奪い合いが、判定線前で展開されるのでスリリングな興味を与える。また力量が、伯仲の場合は、正面走路から決勝線を目がけて殺到する走者たちの混戦場面に、観衆を沸きたたせる。こんなところが、シングルトラック・レースのみどころである。

【参考文献】
第十二回オリンピック東京組織委員会編『報告書』(昭14・1)
大日本スケート競技連盟編『スケート年鑑』(昭16・4)
国際スケート連盟編『世界スピードスケート選手権記録集』(昭42・2)
日本スケート連盟『スピードスケート規約集一九七六年版』(昭50・11)
 俊一『その男 西田信一』グリーン書房(昭52・10)

 3 フィギュア
有坂 隆祐


 4 アイスホッケー
朝日 孝

第3章 行事

 1 宮様スキー大会
赤坂 富弘

   大会誕生と札幌スキー連盟

 札幌は市民の手作りになるスキー競技会を持ち合わせている。しかも半世紀にわたって営々と築きあげてきた伝統の上に、今では国内唯一の国際スキー連盟(FIS)公認の総合競技会という権威が備わって、札幌の冬を代表するエベントになっている。それが「宮様スキー国際競技会」である。
 この大会は昭和五年(一九三〇)、今でいう建国記念日、当時の紀元節にあたる二月十一日に、現在の荒井山スキー場を中心に第一回大会が催されたが、大会創設のそもそもはその二年前、昭和三年(一九二八)二月の秩父宮さまのご来道にさかのぼらなければならない。このご来道は「道民の冬の生活をご視察かたがた、スキーを楽しまれる」という主旨のものだが、ご滞在十二日間の大半を札幌近郊やニセコでのスキー行にあてられるというご日程であった。当時の社会環境、ことに宮さまというお立場からすれば、このようなご日程でのご来道が実現したこと自体、異例のことといってよい。宮さまのスキーに対するご理解の深さによるものだろう。
 このことは前後八日間のスキー行を通じてなお一層関係者の胸に焼きつくとともに、道民の心に強い印象を残した。なかでも多くの人々が感銘を受けたのは、ご滞在最後の夜、ニセコ・青山温泉の宿舎でスキー行のお供をした北大スキー部員にくださったお言葉である。同行者に感謝の言葉をのべられたあと、
 「永い間憧れていた冬の北海道に来て、ますます自然に対する愛着と親しみを深めました。特殊な環境にある諸君が、学問の余暇をこの男性的なスポーツで心身を鍛錬されることは、必要なことでありかつ当然のことであります。(後略)」
 スキーは雪国の生活にはなくてはならないものであると強調された点である。
 昭和三年といえば日本のスキー界はまだ揺らん期にすぎない。スキーがわが国に伝えられたのは、正式には明治四十四年(一九一一)であるから二〇年に満たない。競技スキーの分野でいえばオリンピックに初めて選手団を送り出したのがこの年であり、一般への普及といっても学生が中心で、市民の間にもようやくそのきざしが見え始めた程度のころである。この時期に雪国でのスキーのあり方、必要性を説かれた宮さまのお言葉は、スキーを特殊なもの、ぜいたくな遊びくらいにしかみていなかった人々の目を開かせる大きな刺激剤になったことは確かで、かねがね宮さまのご来道を願い、お供のリーダー役をつとめた、当時北大スキー部長の大野精七は当時を語る時、第一に「このお言葉がスキーの指導普及にどれほど役立ったか、計り知れないものがある」と力説する。
 それだけではない。宮さまはこのスキー行を通じて、大野らに多くのご示唆を与えられ、かつ、その実現にも積極的にお力添えになられた。「日本で冬のオリンピックを開催するとしたら札幌をおいてない。そのためには大きなシャンツェと洋式のホテルが必要だ」これは手稲のパラダイス・ヒュッテでの語らいの中でおっしゃられたもので、四年後の昭和七年に大きなシャンツェ(大倉)も、洋式のホテル(グランドホテル)も実現をみるわけだが、大倉シャンツェは大倉喜七郎男爵が宮さまの意を体して建設地の選定と設計のためにはるばるノルウェーからヘルセット中尉らを招き、工費五万円余を投じて建設、札幌市に寄贈したもので、宮さまのお口添えがあって実現したものである。
 スキーを広く、一般に普及するためにはツアースキーの拠点となる山小屋が必要、という大野の持論に共鳴され、ご来道のその年の秋に空沼岳の中腹に山小屋を建てられた。この山小屋の最初の宿泊者になられたのが、翌四年一月に来道された弟宮の高松宮さまで、「空沼小屋」の命名者でもあられる。戦後このヒュッテは宮家から北大に下賜され、今も夏冬を問わず登山者やツアースキーヤーのオアシスとして広く利用されている。
 このように北国の生活とスキーのかかわりあいについての、宮さまの深いご理解、ご示唆にお応えしようと創設されたのが宮様スキー大会―当時の正式名称は「秩父宮殿下高松宮殿下御来道記念大会」―なのである。
 話は少し前後するが、大会発足の二カ月前、昭和四年(一九二九)十二月七日に大会の母体である札幌スキー連盟の結成をみた。このころ札幌市内には学校、職場単位のものや、仲間内のクラブ組織が四〇ほどあってそれぞれに活動していた。しかし横の連係となるとごく一部に限られていたようだ。これは大半が主としてツアースキーを楽しむごく内輪のものであったことと、競技畑の方では明治以来の伝統と大きな組織力を持つ北大スキー部があらゆる分野でリーダーシップを発揮していたので、その上にまた特別の組織を持つ必要がなかったともいえる。それがここへ来て大同団結を実現させたのは、ヨーロッパの事情を知る宮さまのご示唆と、直接的にはヘルセット中尉の話に出てくるホルメンコーレン大会の存在からといわれる。
 連盟結成の準備作業は北大OBでサンモリッツ・オリンピック(昭和三年)日本選手団の監督を務めた広田戸七郎、北海中−早大OBでサンモリッツの距離代表選手の高橋、クラブ組織としては歴史が古く、世帯が大きかった教職員の集まりである(とど)松クラブ代表の太田武の三人の手で進められ、加盟団体数四一、会員数一、九六六人にのぼる連盟の結成が実現した。
 初代会長は当時の札幌市長橋本正治、相談役には北大スキー部長大野精七、マスコミ界にあってスキーの指導普及に力のあった河合裸石、明治四十五年旭川でレルヒ少佐の教えを受けた長老の三瓶勝美、それに林常夫、小倉春之助、筒井銀平が名を連ね、実際の組織運営に当たる常務委員には広田、高橋、太田と錦戸善一郎(のち連盟会長)、西ノ宮圭次(のち連盟名誉会計理事)、坂上栄松(のち連盟専務理事)の六人が選ばれた。
 この際、事業の第一にあげられたのが「宮様スキー大会の開催」である。ヘルセットのいう西洋のスキーのフェスティバル、ホルメンコーレン大会に匹敵する東洋の大会を、雪と地形に恵まれた札幌に実現して、宮さまのおぼしめしを継承しようという連盟の結成であり、大会の創設であった。
 当時の意気込みを物語るエピソードに、こんなのがある。初代会長の橋本市長に「スキーの普及はいくら口で唱えたところでなんの効果もない。会長であり市長でもあるあなたが、スキーを履いて会場に来られるのが何よりの普及策」と、連盟でスキーと靴をあつらえ、毎晩、公務が終わるのを待って豊平館(当時は今の市民会館のところにあった)の庭で特訓したという。

   大倉シャンツェと記録

 創設の趣旨が趣旨ということで、大会の中味の方にも選手権大会などとは違った考え方がいくつか盛り込まれた。耐久、長距離、ジャンプ、複合とノルディック競技主体のプログラムはなんの変哲もないが、組別を細かくしたところが従来のものとは異なる。ジャンプには小学生を対象にした幼年組が特に設けられた。
 日程も第三回までは“日曜日開催”ということで、二週、三週にまたがったものだ。これはスキーを楽しもうという人なら誰でも参加して下さい、という趣旨からきている。今のように週休二日制や有給休暇などなかった時代、学生はともかく勤め人は日曜、祭日でもなければ容易に参加できないための配慮だったのだ。大会の要項も時代とともに変わってきているが「誰でも参加は自由」という考え方は権威が高まった今でも継承されている。
 当初は参加選手、役員が市役所で開会式を行ったあと市中行進をして会場に乗り込んだものだ。デモンストレーションである。荒井山から三角山にかけての会場では、雪中戦や女子スキーヤーのためのミカン拾い、夜は夜で花火大会のアトラクションも行われている。ひとりでも多くの市民が参加できるよう、今流にいうと競技大会というよりは“雪のフェスティバル”という趣向である。
 新しい発想はそれだけではない。ジャンプ会場では五〇銭のスタンド券、一〇銭のプログラムが販売されたという。札幌オリンピックが開催されるまでは、スキー競技会では入場料はとれないもの、とされてきたが、なんと四〇年も前に有料観覧が試みられていたのである。第二回大会からは距離コースに電信隊が出動して途中の経過を伝え、会場ではマイクを使ってその情報を流すという観客サービスもあれば、IK(NHK札幌放送局)が初めて大会の模様を実況中継(もちろんラジオ)したのは、昭和八年の第四回大会である。
 変わったことでは第一回大会の会場に売店が店開きし、ココアとカレーライスというたった二つのメニューに、観客や選手が殺到して大いににぎわったことだ。どれもこれも現在では大会運営上の常識になっているが、当時としては大変ユニークな試みで関係者の旺盛なパイオニア精神に感銘さえ覚える。同時に札幌市民のこの大会に寄せる関心、期待の大きさがわかろうというものである。
 このように順調にスタートした宮様スキー大会の基盤を、より確かなものにしたのは大倉シャンツェの実現である。秩父宮さまのお口添えで大倉男爵が費用の一切を引き受け、ノルウェーからシャンツェ構築の第一人者、ヘルセット中尉を招いたのが昭和三年の大日、翌年の春には設計図が送られてきたが、工事の方は完成後の管理方法をめぐってゴタゴタが続いたため二年ほど遅れ昭和六年(一九三一)十月六日にようやく完工をみた。プロフィールは助走路が一〇〇、ランディングバーンが一三〇、ブレーキングトラックが一五〇の六〇級シャンツェ、それに審判塔、貴賓席と四つの観覧席が設けられた。
 このころ、三角山から荒井山にかけていくつかの台があったが、いずれもせいぜい三〇どまりの規模であった。そこへ六〇級のシャンツェが出現したのだから、選手はもちろん、市民もさぞや驚いたことだろう。
 翌年一月十六日、開場式が行われ寄贈者の好意に報いるということで「大倉シャンツェ」と命名された。この日初飛びをしたのは北大OBで一、二回大会複合連勝の長田光男と札幌スキークラブの浜謙二の二人。浜の三四が記念すべきバッケンレコード第一号となったのだが、二月の全国中学校大会で早くも国内最高記録五一五〇が松山茂忠(札一中)によって記録された。宮様大会もこの年の第三回大会からメイン会場を「大倉」に移して行われるようになって、ここでの記録への期待が大会への関心を高めることになる。これを決定的なものにしたのが、浅木文雄がかけた七九の大アーチである。昭和十四年の第一〇回宮様スキー大会でのこと、浅木はこの時北海商五年生。この日本スキー史に永久に残る大記録は、その後一三年間も「国内最高記録」として輝き、昭和二十七年、柴野宏明(早大)によって八四に書き替えられたが、この待望の“八〇ライン突破”の舞台も宮様大会であった。このような積み重ねがあっていつしか宮様スキーは“記録の大会”と呼ばれるようになったが、これとてももとはといえば、「大倉」という格好の舞台があったからで、大倉を抜きにして宮様スキーを語ることはできない。
 余談になるが、この大倉があわや遺跡になろうかという事態に直面したことがある。それも秩父宮さまが「将来のオリンピック開催に備えて」造られたというのに、そのオリンピックが実現した際の出来事というから、いささか皮肉な話である。あの一九七二年札幌オリンピックの当初の施設計画では、ジャンプ会場は大倉以外の地に求める、となっていたのである。というのはあの下から巻き上げる独特の風が、それまでに来た外国選手に嫌われたからである。いくつかの候補地があげられ、調査も進められたが、最後に当時のFIS飛躍台建設委員長のクロッファー(西ドイツ)が現地調査をしての結果「大倉が適当」ということになって、宮様大会のふるさとは遺跡とならずにすんだのである。
 その札幌オリンピックが終わって九年にもなるが、「大倉」(現在の正式名称は大倉山ジャンプ競技場)の秀れた建築美、高い機能性は今もって世界の五本の指に数えあげられ高い評価を失っていない。ちなみにこの改修にかかった工費は七億七千万円、出来た当時の建設費は五万と四八円、さて何倍になるだろうか。

   苦難の時代から大会復興へ

 宮様大会の歴史にはいくつかの節目がある。苦難の時代、低迷の時期もあったし、時代が躍進へのはずみになったこともある。特筆されるのはその歴史に空白がない点である。スキーに限らず日本のスポーツ界には大なり小なり戦争による空白の時代というものがあるのだが、宮様大会にはそれがない。
 形は一時期変わった。昭和十六年の第一二回大会に初めて団体伝令競走という戦時色の濃い種目が登場、翌年複合がなくなり、それから二年後の昭和十九年にはいわゆる競技スキーというものがすべてご法度になって戦技スキー一本やりになってしまった。だが、その前年あたりから日本選手権をはじめ大半の競技会が中止になっていたので、たとえ戦技スキーとはいえ多くの競技人が円山競技場に集まって、スキーへの情熱をぶっつけあったという。
 苦難時代の最後の大会となった昭和二十年の第一六回大会の参加者が、五〇〇人にものぼったというのはなによりの(あかし)といえるだろう。この継続性があったからこそ、戦後いち早く本来の姿にかえることができたのである。
 昭和二十一年三月一日から三日間、第一回北海道選手権を兼ねて行われたこの第一七回大会は、当時の新聞によると「南と北の戦線から復員した学連出身者を交えての争覇は、かつてのインターカレッジの華やかさを思わせた」という。参加者は男女あわせて四二〇人余り、種目も長距離、ジャンプ、複合にリレー、大回転が加わって、内容的には掛け値なしに戦前を凌駕するものがあった。半面、大倉シャンツェが使えなかったことと、昭和十年代に活躍した選手のうち、幾人、いや幾十人かのユニホーム姿を再び見ることができなかったという戦事による傷跡がみられた。
 スキー界はこの宮様大会の復活をバネにして復興のテンポを早め、昭和二十二年にはインターカレッジが小で、翌二十三年には国体を兼ねた全日本選手権が長野・野沢温泉で開催され、戦前の姿に戻るわけだが、この昭和二十三年という年は宮様スキーにとっても記念すべき年になった。宮家から優勝杯を賜わったのである。ジャンプの勝者に秩父宮杯、長距離の王者には高松宮杯。どちらも宮さまご自身のデザインになるものという。
 「勝者に宮様杯を」というのは、大会創設時からの関係者の願いで、何度かお願いしたそうだが「前例がない」という答えがかえるだけだったという。時代が変わった昭和二十一年秋、大野が秩父宮さまがご静養中の御殿場の別邸に伺候した際、このお願いを直接申し上げたところ即座にご快諾になられたばかりか、その場で高松宮さまに電話をされてお決めになられたもので、賜杯は二十三年二月、第一九回大会の前日に連盟が拝受し、この大会の勝者、ジャンプの安達五郎、長距離の落合力松が晴れて受賞した。翌二十四年には高松、三笠両宮さまのご臨席が実現、同時に複合競技に三笠宮杯を賜わり、名実ともに「宮様スキー大会」となった。
 現在、賜杯はバイアスロン個人競技に常陸宮杯、女子距離競技に常陸宮妃杯、女子大回転競技に秩父宮妃牌、男子大回転競技に三笠宮妃杯、七〇級ジャンプ競技に三笠宮寛仁親王牌と四宮家から実施八競技すべてに杯(牌)をいただいている。また、昭和二十四年の第二〇回大会以来、宮さまのご臨席が恒例となり、秩父宮さまが亡くなられた昭和二十八年を除いて、ご臨席をたまわっている。昭和三十四年の第三〇回記念国際競技大会には、秩父、高松、三笠の三宮家が初めておそろいでご臨席になり、昭和五十四年の第五〇回記念式典には常陸宮ご夫妻をはじめ四宮家がおそろいになって各会場を回られ、選手、役員を激励された。
 地方の一競技団体がスキーの普及を掲げて創設した、いってみれば“雪の市民運動会”が、回を重ねていくうちに北海道スキー界の登竜門と呼ばれるようになり、いつしか国内のチャンピオン・シップと肩を並べる競技会へと成長し、半世紀の歳月を経て総合競技会としては国内唯一のFIS公認を得るまでになった。このような例は他のスポーツにも全く見当たらない。しかも昭和二十九年には市民による後援会が組織されて運営の基盤が強固になっているのは心強い。

   大野精七と北海道スキー界

 このように宮様スキーがホルメンコーレン大会と同格のものになったのは、宮家の永年にわたる格別のご好意、関係者の熱意などいくつかあげられるが、なんといっても大きいのは札幌スキー連盟名誉会長大野精七のスキーへの情熱とリーダーシップであろう。
 大野と北海道スキー界とのかかわりあいは大正十三年(一九二四)北大医学部教授として赴任直後、北大スキー部の部長に就任した時に始まる。それも「長い冬の生活を克服するには体力が必要。そして雪を克服するということは雪に親しむこと」と、茨城生まれで東京育ちの大野がスキー部長を買って出たものだという。
 札幌―定山渓をとり囲む山々にいくつかのヒュッテを建て、これらを結んだスキーツアーコースをつくろうとした最初の取り組みも、学生や市民にスキーを通じて冬の生活を健康的なものへとの願いからで、医学者らしい姿勢がうかがえる。この考え方の延長線上にあったのが山とスキーにご関心の深い秩父宮さまに冬の北海道へおいでいただいて、スキーを楽しんでもらおうというもので、昭和三年にこの願いが実現したことで、大野のスキーへの情熱は一層高まった。
 連盟の結成、宮様大会の創設、大倉シャンツェの建設などには中心的な役割を果たし、戦前の札幌オリンピック誘致運動では実行副委員長としてその先頭に立った。
 スキー界はいつの時代も、その誠実な人柄、エネルギッシュな行動力を必要としてきた。昭和四十三年、三十余年もの長い間務めた連盟会長の椅子を後進に譲って第一線を退いたが、こと宮様スキー大会に関しては今も大会長である。ユニホーム姿で宮さま方をご案内して各会場を回る姿は、とても満九十五歳(昭和五十五年現在)の高齢とは思えない。この大野の情熱があったからこそ今日の宮様スキー大会がある、といっても決して過言ではない。

   活躍した名選手

 最後に、この大会で活躍した選手について少し触れておこう。
 半世紀にわたる歴史の中で、もっとも価値ある記録といえば昭和十四年、まだ六〇級だった大倉で浅木文雄がマークした七九であろう。ジャンプも一〇〇時代の今日ではたかが七〇台と思われる向きが多いかもしれないが、台の構造、整備、それに用具を含めた技術面などを考えあわせると、“不滅の記録”という表現も決してオーバーではない。
 ひとつの時代を築いた、という点では“雪の超特急”落合力松と“大倉の主”と呼ばれた菊地定夫が双璧をなそう。落合は中学生(北海商)の時、すでに大学生、社会人を下している。戦後いち早くカムバックしたころはまさに“常勝将軍”で、この時代につくられた五年連続優勝の記録はいまだに破られていない。菊地は明大―雪印乳業と落合の後輩にあたり、昭和三十七年の十三戦十二勝、国内での一〇〇ジャンプ第一号など、華やかな競技生活の勲章のひとつにこの大会四連勝がある。札幌オリンピックのメダリストたちも、こと宮様大会に関しては一目も二目も置く。
 これに次ぐのは複合で三連勝、ジャンプで二連勝の佐藤耕一。豪快さで鳴らした浅木のライバル星野昇。昭和四十年ごろ国内で不敗を誇ったレーサー佐藤和男。それにアルペンの斎藤博は三年連続優勝の快挙を大会史にとどめている。これに劣らぬ名選手、好選手、ライバル同士の話題の一騎打ちなど、まだまだ挙げたいのだが、与えられた紙数の都合で割愛せざるを得ない。
 ただ、“自由参加”というこの大会独自の旗印のもとでがんばった多くの選手の中で、三〇年以上も走り続けた高田三郎、気合で大倉に挑んだ亀芳男、初めて大倉を飛んだのが二七歳の時だったという牧野好孝らの名は、宮様大会がやってくるたびに思い出される選手として紹介しておかなければならないだろう。
 いまひとつは、選手やファンが、その時代の世界の一流選手に接する機会を得たことである。昭和三十四年、第三〇回の記念大会に外国選手の招待が実現して初の国際競技会が持たれた。この時やってきたのが“北欧の超人”イエルンベリー(スウェーデン)、ハクリーネン(フィンランド)、ブレンデン(ノルウェー)ら、円山の距離会場はこの世界のエースをひと目見ようという市民で黒山になったものだ。
 これを契機に国際競技会がほぼ一年置きに開催されるようになり、北欧勢を中心に多くの選手がやってきている。そのなかにはオリンピック、世界選手権のメダリストが何人もいる。距離のマンチランタ(フィンランド)、レンルント(スウェーデン)、グロニンゲン(ノルウェー)、ジャンプのエンガン(ノルウェー)、ナパルコフ(ソ連)は金メダルに輝くスーパースター。宮様大会で複合、一五の二冠という快記録を樹立したケーリン(スイス)、旧大倉シャンツェのバッケンレコード保持者となったマトウス(チェコ)の名も札幌のファンにとっては忘れられない。
 FISの公認国際競技会となってからは、参加者の顔ぶれが一段と豪華になりシュナーブル、インナウァーのオーストリア飛行隊、東ドイツのダンネベルグ、スイスのシュタイナーらが札幌の空に華麗なアーチをかけた。こうした“世界の技術”に直接触れる機会を持ち得たことが、日本スキー界のレベルアップにどれほど貢献したか計り知れないものがある。
 宮様スキー大会の果たす役割はますます大きくなってきている。


【参考文献】
小川勝次『日本スキー発達史』実業之日本社(昭31・11)
『北海道帝国大学スキー部記念誌』(昭31・11)
『現代スキー全集第二巻、第四巻、第五巻』実業之日本社(昭45・11〜46・3)
大野精七『北海道のスキーと共に』〈非売品〉(昭46・12)
伊黒正次『日本スキー意外史』スキージャーナル社(昭52・1)
赤坂富弘『宮様スキー大会五十年史』札幌スキー連盟(昭54・6)
小原正巳「大倉山ものがたり」凍原社『北の話』連載
北海タイムス
北海道新聞
日刊スポーツ
朝日新聞
スキー年鑑

 2 世界スピード選手権
内藤 晋

   札幌開催が決まるまで

 第二次世界大戦で、ISU(国際スケート連盟)から資格を停止されていた日本スケート連盟が、復帰を認められて戦後、初めて参加した国際大会が昭和二十六年(一九五一)の世界選手権(スイス・ダボス)である。
 この大会に、内藤晋(道新)、佐藤恒夫、菅原和彦(王子製紙)の道産子三選手が出場、内藤が五〇〇に一位になって、昭和十一年以来国際舞台から遠ざかっていた日本のスピードスケートが、にわかに世界のスケート界にクローズアップされた。その際、ISU副会長でスピード部長のラフトマン氏(スウェーデン・スケート連盟会長)から「一九五三年の世界選手権大会を日本で開催してはどうか。各国の選手も欧州ばかりでなく、東洋の会場を望んでいる」との話があった。これが札幌で世界選手権を開くキッカケになったわけである。
 同年五月、ウィーンのIOC総会に出席した東龍太郎IOC委員にもラフトマン氏は同様の意見を述べた。その後六月上旬、ISUから日本スケート連盟に書面で開催の諾否を打診してきたので、日本スケート連盟では招致の態度を決め、同月コペンハーゲンで開催のISU総会に正式に通告した。
 一方、国内では会場候補地として札幌のほか、八戸、日光、諏訪などが名乗りをあげていたが、日本スケート連盟では、二十六年の暮れも押し迫った十二月二十九日の夜、竹田恒徳同連盟会長宅での役員会で会場は札幌にすることを決定。早速ISUに「一九五三年札幌開催を希望する」むね連絡、加盟各国にもパンフレットなどを送って同意を求めた。
 さらに翌一九五二年の第六回冬季オリンピック・オスロ大会の際に開かれたISU理事会非公式会議に竹田会長が招請案を提示、札幌開催を強く訴えた。この提案はラフトマン氏をはじめ、各国代表から非常な好意をもって迎えられたが、各国の意向を八月末までにISUに集め正式決定されることになった。
 結局、八月末ラフトマンから竹田会長あての書簡で“六月初旬、ブラッセルで開かれたISU理事会後、各国の意向を打診したが、本年度はオリンピックを開催した直後でもあり、遠隔の日本での開催は参加国の費用の点でも無理がある、との理由で一九五三年の世界選手権はフィンランドのヘルシンキに決定した”ことが明らかになり、関係者をがっかりさせた。
 それでは一九五四年開催に努力するほかないということになり、二十八年六月中旬、イタリア北部のストレッサで開かれた第二五回ISU総会に、日本連盟の竹田会長と道氷連の西田信一会長が出席して札幌招致に努めた。ISU事務総長G・へスラー氏(スイス)は、特別提案事項として“札幌開催案”を出した結果、北欧各国や米国が全面的に賛成、札幌開催はほぼ確定的となった。
 翌七月のISU理事会は、すべて筋書き通りに進み、七月二十八日夜、ISUから日本スケート連盟会長宛「一九五四年度世界スピードスケート選手権大会を日本で行うことに決定した」むね入電があり、続いて八月八日、ISU事務総長G・ヘスラー氏署名の正式書類が届き、ここに札幌開催が決定したわけである。
 かつて昭和十五年の第五回冬季オリンピック大会開催予定地(戦争のため返上、中止された)だった札幌市が、幻のオリンピックに代わり、六〇年の歴史を持つ男子世界スピード選手権を東洋で初めて行うことになった。会場は円山公園の陸上競技場の特設リンク、期日は一月十六、十七両日があてられることになった。

   大会の歴史

 スピードスケートの最初の世界選手権大会は、一八八九年(明治二十二年)にオランダのアムステルダムでオランダ、英国、米国、ロシアなどから二二人が参加して行われている。種目は(八〇四・六七)、1、2の三種目で、それぞれ種目別の順位が争われたが、総合得点のタイトルはなかった。
 国際スケート連盟が創立されたのはそれから三年後の一八九二年で、ISUの管轄のもとで世界選手権が行われるようになったのは、翌一八九三年からである。この大会(アムステルダム)が第一回大会として記録されており、種目も五〇〇、一五〇〇、五千、一万とメートル制の四種目によって総合タイトル(過半数の三種目に一位となる制度)が争われた。
 それ以来、世界選手権は二回の世界大戦による中断(一九一五〜一九二二年、一九四〇〜一九四六年)はあったが、札幌で開かれるまでの六〇余年にわたって、ほとんどヨーロッパ大陸で開催されている。この長い歴史のなかで、ヨーロッパ以外の地で行われたのは、カナダ(モントリオール、一八九七年)と米国(レークプラシッド、一九三二年)のわずか二回に過ぎない。従って札幌大会は東洋で初めての大会であり、日本はヨーロッパ、北米大陸を除いてスピードスケートの世界選手権を開く最初の国となったわけである。
 札幌開催決定に当たり、ISUスピード部長のラフトマン氏は「ISUの理事会が、ほとんど全会一致で選手権大会主催を日本スケート連盟に委託したのは、日本が永年、世界選手権大会や、オリンピック、国際大会などに常に優秀な選手を代表として送り、よく戦ったからである。また過去半世紀間の日本におけるスピードスケートの目覚ましい発達ぶりに対するISUの信頼と尊敬の念を、この度の決定によって示したいとも思ったからである」とのメッセージを寄せている。
 札幌大会までの世界選手権開催国をみると、ノルウェーが一九回(オスロ一三回、トロントハイム四回、ハマー二回)で最も多く、スピード王国を誇る古豪ぶりがうかがえる。これに次ぐのがフィンランドの一一回(ヘルシンキ一〇回、タマホース一回)、続いてスイスの六回(いずれもダボス)スウェーデン四回(ストックホルム三回、エスキルスツナ一回)などで、このほかオランダ、ソ連は二回ずつ、ドイツ、米国、カナダではわずか一回ずつ行われているに過ぎない。
 この間、選手権者をもっとも多く出しているのはノルウェーで、一二人のチャンピオンが過半数の二五回のタイトルを握っている。このなかで一九〇七年(トロントハイム)に初登場し、翌年ダボス大会で優勝、同国四人目のタイトル保持者となったオスカー・マティーセンが一九一四年までに五度チャンピオンの座についたのをはじめ、一九二六年から三八年までに優勝四回、二位四回、三位三回と一三年間、常に世界のトップクラスにあって一時代を築いたイバール・バラングルード。この強豪と渡り合って一九三〇年から三七年までに優勝三回、二位二回の活躍を演じたミカエル・スタックスルド、さらに第二次大戦後の一九五〇年から三連勝したヤルマール・アンデルセンといった“氷の英雄”たちが、スピード王国ノルウェーの伝統を築き上げた中心人物となっている。
 フィンランドは四人のチャンピオンが八回世界の王座についているが、第一次大戦後の一九二二年から三三年までに五度の優勝と二位二回という大活躍で、ノルウェーと肩を並べる強国にのし上げたクラス・ツンベルグの功績が光っている。このほかオランダが二人で四回勝っているが、三回はヤープ・エデンが一八九三年(アムステルダム)の第一回大会から九六年までの大会初期のタイトルである。

   日本と世界選手権

 日本の選手(男子)が国際舞台に初登場したのは一九三一年(昭和六年)のヘルシンキ大会である。河村泰男(奉天)木谷徳雄、石原省三(安東)の満州育ちの三選手が出場、昭和五年の第一回全日本選手権者の木谷が、四種目とも日本選手中最高の成績(五〇〇八位、一五〇〇一一位、五千一七位、一万一五位)をあげ、総合で、当時全盛を誇り五度目のタイトルを握ったフィンランドのクラス・ツンベルグに一〇点余り離されたが、一一位(出場二二人)になるという健闘ぶりぶりだった。
 翌三二年(レークプラシッド)は、同地で行われた第三回冬季オリンピックに日本スケートが初参加した年で、前記三選手に閏間留十選手(諏訪)を加えたオリンピック代表四選手が出場した。このときは河村選手が一五〇〇に二分三三秒一で一二位になるなど総合で一五位(出場二七人)に入った。
 三回目は一九三六年(ダボス)大会。同年ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンでの第四回冬季オリンピック代表の河村泰男、南洞邦夫(奉天)金正淵、張祐植(明大)の四選手が出場、昭和九、十年の日本チャンピオン金が、五千九分三秒六で八位(出場四一人)、一万は一八分二三秒四で一〇位となり、総合で一九三一年の木谷と同じ一一位という好成績を残している。
 第二次大戦で中断されていた大会は一九四七年(オスロ)から再開されたが、日本が国際復帰を許されたのは昭和二十五年(一九五〇)の夏も終わるころだった。
 ダボスにある国際スケート連盟(ISU)本部から「日本の連盟復帰を認める。五一年、ダボスの世界選手権参加を歓迎する」むねの書簡が連盟に届いた。ISUへの復帰はオリンピック参加につながることであり、この際、世界スケート界の現状を把握しておかなければ−ということで、一九三六年以来一五年ぶりに世界選手権参加が実現したわけである。
 この大会の五〇〇で内藤が四三秒〇(日本新記録)で一位のほか、菅原が五位、佐藤が一〇位の成績だった。しかし一五〇〇、五千はいずれも一〇位以下で最後の一万(一二人が出場)には出られなかった。
 続く五二年(ハーマー)は、前年の不振挽回を期す菅原和彦選手が五〇〇に八位、五千一一位(八分四〇秒〇=日本新)一五〇〇一八位(出場三〇人)で一万に出場、一七分五八秒五の日本新記録で九位となり、総合一〇位と日本人として最高の成績を収めた。五〇〇では青木正則選手(王子製紙)が三位になっている。
 このように日本スケート界は、一九五二年まで五回の出場と、そのレースぶりが認められ、あらゆるスポーツを通じて初めての世界選手権を開催する光栄を担ったのである。

   日本にあこがれていたアンデルセン

 アンデルセンは一九五一年、ダボスの世界選手権で初めて日本の選手と顔を合わせた。菅原、内藤ら北欧勢に比べて体の小さなスケーターが器用に滑る姿を見て、興味を持つようになった。翌五二年、地元オスロで第六回冬季オリンピックが開かれ、世界チャンピオンのアンデルセンは、ノルウェー国民の期待通り、第四日の五千、第五日の一五〇〇に優勝。第六日は三つ目の金メダルを目指す一万に第三組で菅原と組んで力走、ぐんぐん差を広げて二〇周目で約一周(四〇〇)近くリードした。このときのアンデルセンの途中計時は、オリンピック記録を上回り、さらに自己の持つ世界記録も破るかどうかという勢いだった。
 一周遅れた菅原は、アンデルセンがすぐ後ろに迫ったのを知り、幅五のコースの内側から大きく外側に寄って同選手に内側を譲ったのである。親善試合とか交歓競技ならまだしも、世界最高の舞台でこのような行為はなかなか出来るものではない。ビスレット競技場を埋めた数万の観衆は、世界新を樹立し、三つ目の金メダルを獲得したアンデルセン以上の大きな拍手を送って菅原選手を賞賛した。翌日の各新聞は、アンデルセンと肩を抱き合う菅原の写真をのせてそのスポーツマン・シップをたたえた。日本を訪れてみたいという同選手の気持ちは、この時にはっきり固まった。
 アンデルセンは、このあとの一九五二年世界選手権(ハーマー)で三年連続優勝を成し遂げて第一線を退いた。しかし五四年札幌開催が決まると、日本に対する“あこがれ”は前にも増して大きくなるばかり。遂に一年間のブランクを乗り越えて“札幌大会出場”に踏み切ったわけである。
 ノルウェーの至宝アンデルセンを欠いた五三年大会(ヘルシンキ)は、ゴンチャレンコら新興ソ連勢に圧倒されていただけに、札幌大会は“英雄”アンデルセンの復帰による北欧勢がどんな巻き返しを見せるか−近来にない興味深い大会になった、ということが出来る。

   氷つくりの苦労

 例年の世界選手権は、ISUの規定により一月末の欧州選手権から二週間後に開催することになっているが、札幌の場合、二月中旬の気候では氷質が懸念されるため、ISUスピード部長ラフトマン氏の特別の計らいで、欧州選手権の前に行うという了解を得、通常より約一カ月も早い一月十六日(土曜)十七日(日曜)という日程が決まった。
 早速、組織委員会が結成され、道、市、スケート連盟など関係者が一体となって大会の準備に当たった。
 会場の円山陸上競技場では、十二月七日から特設リンク作りが始まったが、なかなか気温が下がらず、せっかく踏み固めた雪が暖気で解けるなど、作業が予定通り進まず難行を続けた。ようやく二十日を過ぎてから夜半の気温が零下七〜一〇度ぐらいに下がり、五十数人の係員が谷木繁太郎整氷主任ら四人の監督、指導のもとに徹夜の散水作業を繰り返した結果、ようやく暮れも押し迫った二十九日、五千坪(一万六、五〇〇平方)を超す待望の銀盤が出来上がり、滑走可能の状態になった。
 この氷つくりで一番苦労したのはリンクの氷面を水平にすることだった。陸上競技場とスピードトラックは、一周は同じ四〇〇だがカーブの半径が違うのでコースが一致しない。どうしてもトラックとフィールドにまたがってコースを作らなければならないのだが、陸上競技場はトラックとフィールドでは一五くらいの高低差がある。積雪が少なかっただけに、何回も薄く散水を繰り返して水平な氷盤に仕上げるまでの苦労は大変なものだった。
 もう一つ一般の人にあまり知られていないのがカラスのフン害。当時、会場周辺には約一万羽といわれるカラスがいて、せっかく作った氷盤のいたる所にフンを落とした。これに陽が当たると熱をもち、氷が解けて小さな穴があく。整氷係員は小さなカンナやスコップを手に、数え切れない程のフンの始末にずいぶん悩まされたという。
 札幌の世界選手権が成功裡に無事終了できた陰にはこれら整氷関係の裏方さんたちの日夜を分かたぬ尽力があったことを忘れることはできない。

   大会開幕

 東洋で初めての一九五四年男子世界スピードスケート選手権大会は、好天の一月十六日、札幌円山陸上競技場特設リンクに、ノルウェー、ソ連など六カ国から精鋭一九選手が参加、午前十時二十分、スタンド塔上から高らかに鳴り響いたファンファーレを合図に開幕した。
 スタンド貴賓席には総裁高松宮さまをはじめ、竹田日本スケート連盟会長夫妻、ラーゲル・フエルト・スウェーデン公使夫妻、文部大臣代理の福井政務次官、ラフトマンISU副会長らのほか、田中北海道知事、高田札幌市長ら地元関係者も顔をそろえた。やがて五段雷の花火を合図に、会場を埋めた二万余の観衆の拍手に迎えられて、四人の女子スケーターに持たれた日章旗がリンクに登場、保安隊北部方面総監部音楽隊の「君が代」吹奏のうちにメーン・スタンド正面のセンターポールに高々と掲揚され、続いてISU加盟二五カ国の国旗と日本スケート連盟旗が、バックスタンドの掲揚柱に一斉にひるがえった。
 このとき打ち上げ花火が冬空にとどろき、参加各国の小国旗がリンクを取り囲んだ大観衆の注目を浴びながら、中空の白煙のなかから銀盤に舞い降りてきた。
 定刻十時三十分、五〇〇第一組のグリシン(ソ連)と李(韓国)の両選手が、石原省三スターターの号砲でスタート、競技の幕が切って落とされた。

   レース経過

 競技第一日 五〇〇は前夜からの気温上昇で氷が軟らかく好記録は望めなかった。さらに午後一時半開始予定の五千は氷が軟弱のため午後七時からナイターで行われた。五〇〇でダイナミックな走法を見せ、四〇秒九の世界記録を持つセルゲエフを退けて一位になったグリシンが、五千にも八分三〇秒台の好走で九五・八四〇点で第一日をリードした。これに五〇〇に四位、五千に二位のシルコフが〇・一二差で、さらに脚力を生かして五千に連勝したゴンチャレンコ、両種目に六位のサクネンコのソ連勢が続いて上位を独占、新興勢力の力を見せつけた。
 これに対し伝統の北欧勢は、一年のブランクによる練習不足気味のアンデルセンをはじめ、オース、エリクソンらいずれも氷が軟らかかった五〇〇での低調がたたり、五千での力走も空しく、エリクソンらが五位、オース、アンデルセンは六、一〇位という成績で、タイトル奪回の厳しさを感じさせた。
 日本の浅坂はレース開始時の気温零下五度、微風という好コンディション下の五千に、四一秒台のラップを保つ好調な滑りで八分四〇秒〇の自己最高タイムを出して九位を占め、得点九九・四〇〇の一二位で第二日に望みをつないだ。しかし五味は、五千でチャンピオン、ゴンチャレンコと顔を合わせて興奮したか、日ごろのペースを忘れて猛烈に飛び出してしまった。この暴走で後半すっかりスピードが落ち、浅坂に一二秒も遅れる失敗で前途を暗くした。
 五〇〇をねらって出場した高林とサローネン(前年一位)の両スプリンターは第三組でスタート、高林が積極的なピッチ走法で前半をリード、サローネンの必死の追い込みで後半差をつめられたが逃げ切って三位に入った。
 競技第二日 午前十時半から始まった一五〇〇レースは快晴、気温零度で氷の状態は良かったが、二前後の西風に妨げられ、午後の一万は第一組以外は風雪に災いされて選手を悩ませた。一五〇〇は前年の勝者シルコフが、柔かく美しいフォームと巧みなペースであっさり二連勝、三種目得点一四三・三九三で、第一日リードしたグリシンを抜いてトップに立った。ゴンチャレンコも安定した滑りで四位となり、総合で一四五・二九〇と三位を維持したが、シルコフに一・八九七と差を広げられた。
 北欧勢ではオースが意欲的なレース運びでグリシンと二位を分け、三種目でゴンチャレンコに〇・〇二三の差で四位を占めたが、シルコフとの差は一・九二(一万のタイムに換算すると三八秒四)、五位のエリクソンは二・五四四と差を開かれ、ソ連−北欧勢の対決は、前年に続きソ連の優位が確実になった。
 ゴンチャレンコかシルコフか―タイトルをかけた最後の一万は、この両者の激突で始まった。スタート直前から降り出した雪は、四周目辺りから止み、急に青空がのぞいた。前年の勝者ゴンチャレンコは、脚力に物をいわせ、四二秒台の正確なラップで次第にシルコフを引き離し、一七分三八秒七のタイムで連勝した。しかしシルコフはよく自己のペースを守り、一八分一秒四でゴール。四種目総合で〇・七六二点差をつけ、前回優勝のゴンチャレンコを抑え初めてチャンピオンの座についた。
 第二組の浅坂―マーチンセンのレース開始時から再び雪が降り出し、風も加わったが、この不利な条件下で浅坂が力走、北欧の強豪に伍して七位(日本人として最高)に入賞した。アンデルセンは最後の第六組に出走、三万人の大観衆の声援を受けながら、力強いストローク走法でゴンチャレンコを脅かしたが、二秒三の差で二位に終わった。もし第一組のようなコンディションに恵まれていたら、勝敗は当然逆になっていたと思われるだけに、アンデルセンにとっては不運というほかない。

   タイトルは再びソ連へ

 シルコフは第一日の五〇〇に四位、五千に二位、第二日は一五〇〇に優勝、一万に三位と四種目に平均した力を持つ典型的なオールラウンド走者であり、長距離二種目を制して連覇を目指すゴンチャレンコも、五〇〇、一五〇〇で二点余もシルコフにリードされてタイトルから見放され、王座を明け渡した。短距離で得点をかせいだグリシンがゴンチャレンコに次いで三位と、ソ連勢が上位を独占した。
 スケート王国の伝統と名誉にかけて王座奪回を期した北欧勢は、本来の実力を十分に出し切れず、エリクソンが四位、アンデルセンは六位、オース七位に終わり、新興ソ連に再び苦杯をなめさせられた。
 日本の浅坂は一五〇〇の六位をはじめ、一万に七位、五千に九位、五〇〇は一二位で総合で九位に入賞した。これは菅原和彦選手の一〇位(一九五二年、ノルウェー・ハーマー)を上回る日本最高の成績であり、本大会ならびに日本スケート界にとって大きな収穫であった。
 またアンデルセンが最後の一万で、これまでの不振を吹き飛ばすようなダイナミックな滑りで「銀盤の英雄」の片りんを見せ、札幌大会の最後を鮮やかにしめくくったのは、さすがというほかはない。

   戦い終わって

 円山競技場特設リンクの銀盤で熱戦が繰り広げられたレースは、三万余の大観衆の拍手と声援を受けて一万最終組のアンデルセン、サクネンコがゴールインして終了。メーンスタンド前のコース内側に設けられた氷の表彰台中央に新チャンピオン・シルコフ選手(二六)、その両側に二、三位のゴンチャレンコ(二二)グリシン(二三)の両選手がいずれも感激の面持ちで立つ。竹田大会長から月桂樹の輪を肩に受けたシルコフ選手の顔が晴れやかにほころび、スタンドを埋め尽くした観衆から万雷の拍手がわきおこる。ソ連国歌がスピーカーから流れ、バックスタンド中央のメーンポールにソ連国旗が掲揚されると、表彰台上のソ連トリオの顔は一段と輝きを増したように見えた。
 台から降りたシルコフ選手が軽くコースを一周。総立ちの観衆は、新チャンピオンの晴れ姿に惜しみない拍手と歓声を浴びせた。シルコフ選手がメーンスタンド前に戻ってくると、かつてのチャンピオン・アンデルセンと僚友マーチンセンの両ノルウェー選手が、シルコフを肩に担ぎ上げて祝福、観衆をかき分けながら選手控室まで運んで行った。
 実力を出し切れずに敗れたアンデルセンらノルウェー勢が、その悔しさを少しも表に出さず、新チャンピオン誕生を心から祝ったこの行為は、真にスポーツマン・シップの典型である。“スポーツに国境はない”“スポーツ選手はもっともすぐれた国際親善使節である”などという言葉を自ら実行したアンデルセンは、文字通り「英雄」であり、この美しいスポーツマン・シップに接した関係者、観衆の感激はいつまでも心から消え去ることはないだろう。
 東洋で初めての世紀のレースは十七日午後三時二十分、降りしきる雪の中に響き渡ったファンファーレの合図で幕を閉じた。
 同夜七時半から札幌グランドホテルで盛大なバンケットが開かれた。総裁高松宮さまをはじめ竹田日本スケート連盟会長夫妻、ラフトマン国際スケート連盟副会長、田中知事、高田札幌市長ら在札関係者、各界代表など百余名が参加してまず表彰式が行われた。
 “銀盤の王者”シルコフ選手の名が呼ばれ、カメラマンのフラッシュを浴びながら、ラフトマン副会長から栄光の金メダルを首にかけてもらうと、各テーブルから盛んな拍手がおくられた。続いてゴンチャレンコ、グリシンの胸に銀と銅のメダルが輝いた。次いで竹田会長が日本スケート連盟の有功章を各種目の三位までの入賞者の胸に飾った。さらに総理大臣から贈られた銀製の花びんなど数々の副賞が竹田会長夫人から贈られて表彰を終わった。
 続くレセプションでは参会者一同が、カクテルで大会の成功を祝福、大広間いっぱいが国境を越えた和気あいあいのムードに包まれて、世界スケート史に新たな一ページを加えた有意義な大会の幕を閉じた。

   スケート界に及ぼしたもの

 大会終了後の記者会見に臨んだISU副会長のラフトマン氏は「大会が非常な盛会裡に終わったことについて札幌市民の協力を感謝する」と前置きし、「二日間の大会を通じて各国選手がすぐれたスポーツマン・シップを発揮、立派なレースが行われた。大会は非常な成功であったと思う。とくに印象深いことは、幾多の障害や難問題を克服して大会実施にこぎつけた日本政府の支援と札幌市民の協力ぶりで、私がこれまで参加した三〇回以上の選手権大会でも、こんどのように整然と組織され実行されたことはなかった。また日本の観衆のスケートに対する熱意がヨーロッパに比べて決して劣らないのを見てうれしかった。日本は近い将来、オリンピック招致を望んでいると聞いているが、私は帰国したら今大会の模様をIOCに伝えて、日本のスポーツに対する熱意と愛好のほどを知らせ、その実現に努めたいと思います」とのメッセージを残している。
 この大会の成功が、一九六三年(昭和三十八年)の軽井沢における史上初の男女世界スピード選手権同時開催、翌六四年の第一八回オリンピック東京大会、ひいては一九七二年(昭和四十七年)の第一一回札幌オリンピック冬季大会へと波及して行ったことを思うと、一九五四年の札幌大会開催は誠に有意義であったといわざるを得ない。
 この大会以来、道民のスケート熱はとみに上昇し、とくに十勝、釧路など道東地域での隆盛ぶりは著しく、日本を代表する優秀選手が続々と誕生している。さらにこの中から世界の強豪と肩を並べる逸材が生まれていることは喜ばしい限りである。


【参考文献】
北海道新聞、朝日新聞

 3 札幌オリンピック冬季大会
河村 隆盛

第四章 冬の遊び

 1 雪戦会
菅 忠淳

 物という物すべてが、声を潜めて凍りつく厳しい北国の冬。
 わたしたちの父祖は、その厳しい自然に耐えて生き抜き、今日の北海道を育くんでくれた。氷と吹雪に明け暮れた日々、わたしたちの父祖は何を考え、何をしながら暮らしていたのだろうか。
 たっぷりと、レジャーに浸って生活をエンジョイできる現代と違い、そこには何もなかったのではないだろうか。やがては訪れるであろう花咲き鳥歌う季節を夢見ながら、雪の下でうづくまっていたのではないだろうか。
 私は、冬を迎えるころになると、そんな思いにかられて往時を偲ぶことが多い。
 しかし、その時代にも若者はいた。青年のエネルギーは、いつ、どんな時代でも、四囲(しい)に抗して爆発しようとする。その、彼らのエネルギーが凍てつく氷をはね飛ばすスポーツに形を変えていっても、不思議ではない。道具も使わない、金もかからない、若さとエネルギーだけがあればこと足りる冬のスポーツが、こうして誕生した。
 旧制札幌一中の名物として名を知られた「雪戦会」の誕生である。

   その歴史

 札幌一中の前、前身ともいえる私立北鳴学校で冬の遊びとして雪を適当の高さに積み上げ、その上に立てた旗を奪い合うゲームが、その起源というのが定説のようである。
 素朴な青春のエネルギーの爆発であることに変わりはない。明治二十八年、札幌一中の前身である札幌尋常中学校が開校して「雪戦会」は、その形を整えたようである。
 以下、引用は「札幌一中学友会記」と「札幌南高六十年史」からである。
 「明治之青年は洋々たる志想を有せざる可からず豪壮たる志気を有せざる可からず。軟柔惰弱は吾人の敵なり。須らく打破して強健活発の旗色を明らかにせざる可からず。北海の山野、今や皚々たる雪を以て覆はれたり、花を蹴り雪を踏んで練体鼓神の壮戯を演ずるは豈此期に如くべけんや、是れ実に本会に於て雪戦を開催する要旨なり」
 と、いうのが明治三十一年の、雪戦会が恒常行事として定着したらしいころの開催要旨である。もう、今ではお目にかかれぬ古めかしい文章である。その記録は、さらに続く。
 「数旬間雪中に蟄居して徒らに肥肉を嘆じたる我北海健児は、時こそ来れと――」
 まさにエネルギーの爆発である。
 ところが、面白いことに気がついた。そのころは全生徒を東軍と西軍に分けて「東西二百の健児が腕を撫し肩を怒らしても相敵視」したのである。ところが、明治三十三年からは南、北軍に分かれている。どうして最初の二年間だけが東西に分かれていたのか、これは謎である。
 戦後まで続いた雪戦会の名物、ブタ汁は明治三十六年ごろから始まったらしい。最初のころは芋が食事時に出たと記録に残っている。娯楽のなかった時代、雪戦会は単に一中学の校内行事というだけでなく、札幌の冬を代表する行事だった。スケールの差こそあれ、今の「雪まつり」のような存在だったと言っても過言ではない。
 明治三十三年の記録によると、その人気は「貴顯、紳士、農学生、小学生等で立錐の余地なし」、明治四十年には「参観者は朝野の紳士、貴婦人その数約二千」とあり、明治四十四年となると「この日の観客は三万有余といい、或は無慮五万という。電話にての問合せ、入場券の申込み、写真撮影の申込み、書状にて依頼し来るもの枚挙に遑なし。当日は『満員、空席無之候』と貼紙がされた。この札を見て帰った者が三千人。南一条から北十条まで十二町の間一直線に貫いて真黒な人続きができた」と、信じられないオーバーな記録が残っている。
 それほどでもなかったが、私自身の経験でも、興奮した観客が会場になだれ込み、場内係の制止をも聞かずに生徒と一緒になって乱闘を始めた人がいた。私が一中に入学する二、三年前の昭和五、六年のころである。
 この人気を裏書きして明治三十九年にはロンドンタイムス紙に、ロシアを破った東洋の島国の一中学の教育の成果として写真入りで紹介され、国際的な話題を提供したこともあった。昭和九年には札幌中央放送局が全国に実況放送、翌十年には米国のメトロ社がニュースフィルムに収めて全世界に紹介したこともあった。
 昭和二十年一月の雪戦会が最後となる。まさか、その年に敗戦を迎えるとは思わなかっただろう。
 明治三十一年を第一回とし、大正天皇崩御の翌年の昭和二年、昭和七年の雪不足による中止などあったが、札幌名物の雪戦会も四六回で歴史の幕を閉じる。
 昭和四十七年になって南高が雪戦会を復活して雪上運動会とその名も改め、年中行事として定着させているとの報道もあった。一行つけ加えておく。

   概要とルール

 雪戦会といっても、知らぬ人も多いはず。その概要を記しておこう。
 グラウンドの南北に築城された高さ六、底径五の城に早く登った方を勝ちとするのが基本。城は踏み固めた雪をノコギリで切り、横積みにするが、底から二まではシブ塗りが認められた。
 城を守るのは二五人で、上級生のモサがあてられた。攻撃は、城守りを“実力”で排して人梯(じんてい)を城に付けることで始まる。一段目の人梯の上に二段人梯を配し、さらにその肩車にのると城の頂点まで約二。簡単に登れそうだが、下級生の人梯がグラつくと、人梯の上に立っている人間の足もとが乱れるので、なかなか思うようにいかない。登城者はすばしこい男が予定され、タビのツマ先で身体を支え、手の指先で雪に穴を開けて、身体をよじらせて登る。
 この本城争奪戦の前座として前塁突破戦というのがあった。記録によると明治三十九年から始められたもので、塁の規格その他は当時定められたものという。前塁は高さ二一〇、長さ一三五〇の横長型で、塁の厚さは六〇。この塁を一〇人で守る。
 攻撃は本城の時と同じく人梯に乗り、守備の「平手で打っ」てくるのを排して、守備陣に組み付く。なにしろ守備よりも攻撃する方が多いので、守備陣にスキが出る。そのスキに乗じて塁を突破するというより、身体ごと転げ込むのだが、三人が塁を突破すると審判が陥落を宣言。この宣言で一〇人の塁守は本城の守備陣に合流、攻撃軍は最後の一人まで塁を登り、越えて、いよいよ本城攻撃に入る。
 前塁の守備が固いと陥落に時間がかかり、自軍の本城に敵が登り始めているのに、まだ当方は前塁攻撃中、という攻め側の焦燥と守り側の、もうすこし耐えて敵の攻撃を遅らせようという意識の交錯が観衆の心にも伝わり、ここらあたりが興奮のピーク。
 攻撃軍の最後の一人の登塁が完了すると本城攻撃である。「ウワァー」という喚声をあげながら殺到する攻める側と守る側の戦いが始まる。“白雪を紅に染めて”という形容は、この時の描写である。人梯を早く城に付けるのが先決である。人梯を組む練習は当日以前に何回も行われる。負傷者など不祥事件を起こさぬためにも必要である。頭部や手が表面に出ぬように頭や手をお互いの腹の下にもぐり込ませるのがコツ。だから背中の上を歩くのと同じである。
 この人梯も、本城にダイレクトには付けることが技術上できない。そこで攻撃のポイントとなる場所に何人かが、城に背を密着させて付き、自分の脚を人梯の土台とさせる。つまり、縁の下の力持ち的存在となるのであり、こんなところにも教育効果を見いだそうとしたのではないだろうか。
 本城攻撃のことを書いた時、「平手で打つ」と、カッコに入れたのには意味がある。雪戦規程には「戦闘は平手をもって敵を押すものとし、鉄の使用を禁ず」とある。つまり、殴ってはだめということである。
 雪戦会の運営には、なくてはならない先生がいた。戦前の一中の卒業生なら知らない人はいない一中名物の先生だった。本間治助氏。本間先生といっても、ハテという人もいるだろうが、「マントクさん」といえば、「ああ」とうなずく。軍事教練の先生で、階級は特務曹長(あとで准尉と改称された)だが、退役して進級がないところから万年特務曹長、つまり「万特」、「マントクさん」と呼ばれていたのである。
 そのマントクさんが雪戦会開始に先立っての注意事項を全校生徒に告げると、全校が爆笑に沸く。
 「いいか、よく聞けよ。平手で強く押すのだぞ。こう、押すのだ」
 と、腕を突き出して演じてみせる。いざ、戦闘開始となると平手で押すものなど一人もいないことを百も知りながら、そう言わなければならない立場を知って生徒は笑うのだが、マントクさんも訓示しながら笑ってしまう。そんな風景が毎年繰り返された。
 こうして本城の争奪戦が白雪を血で染めて行われたが、一人の登城者もなく引き分けに終わった年もあった(大正十五年)。
 「高さ三丈の絶壁、切岩のごとく、セメントにて固めたるごとし。手をかけては落ち、足をかけてはすべり、両軍あせれども築梯の覆繰返されるのみ。ついに両軍共一人の登城者なし。築城術の進歩か」。
 たしかに築城にも器用な、上手な人がいたようである。その年によって城がスマートな形の時もあれば、不格好きわまる年もあった。
 旧制中学の五年間は、ちょうど成長時期にあたる。一年はまだ子供だが、五年ともなるともう大人である。それらを一緒にして雪戦会をするのは、すこし酷であろうと一、二年生と三年生以上に分けて行われるようになったのは昭和に入ってかららしい。本城奪取戦ばかりでは単純と、鉢巻取戦や騎馬戦も行われ、フィナーレを飾る城落としとして雪ダマがあたると化学的に発火する装置を城の頂上に設置して人気を集めたこともあった。
 雪戦会当日の服装はズボンは破れてもよいものとされ、上は柔道着の刺し子。履きものは危険防止のためツマゴ、ゴンベイ、ワラジや足袋と定められていた。ツマゴなどのワラ製品はもう見ることもできないが、全校生徒が履くだけの数がそろったのも、そのころの時代。これらは雪戦会が終わっても除雪の時などに使えて便利で、あたたかい履きものだった。

   紙上に再現

 三学期が始まると、全校生徒が校庭で雪踏みをはじめる。指揮はマントクさん。積雪の少ない年は、雪よ降れ、降れと祈るようにして踏む。開催日は積雪の具合にも左右されるが、おおむね一月の最終日曜日になっていた。
 余談だが、その日は全道中学校スキー大会とぶつかり、スキー大会には当時各校とも全生徒が総出で応援する習慣だったが、一中は雪戦会当日なので応援は皆無。でも、一中はスキーでも名門校として全道を制していた。
 一〇日ほど前になると全生徒が南、北軍に分けられる。五年生のモサが各教室を回って一人ひとり名前を読み上げて区分けするが、返事の声が小さいと気合いをかけられる。一年生の気の弱いのは泣き出しそうになるほど恐怖を感じるらしい。
 大会運営役員と南、北両軍の幹部の名が運動場に大きく張り出されるのも、このころ。
 運営の係は総務、接待、警備、記録、物品、衛生、炊事、会場、装飾、写真、花火、ラッパなどに分けられている。
 三日ぐらい前から築城が始められる。雪を切る、運ぶ、積み上げる。体温で溶けた雪か汗か、全員が全身グショグショになる。
 絵画同好会の霞会の生徒は装飾係になってポスター製作、会場入り口に掲げられる額絵の飾り付けに忙しい。男女共学の現在の高校生には考えられないことかも知れないが、当時の中学生にとって女学生の存在は、遠くまぶしいもの。だから雪戦会のポスターを女学校に貼りに行くのは大変な勇気を必要とした。淡い青春の日々の思い出である。
 中学の五年生ともなるとヒゲの濃いのが相当いる。雪戦会に備えて床屋にも行かず、ヒゲもそらないから顔じゅうヒゲもじゃの男もいる。学校も大目に見てくれたようだ。
 当日の昼に出るブタ汁も、楽しみの一つだった。前日から炊事係が用意して作るが、秋のウサギ狩りの時のブタ汁と並ぶ一中名物で、アルミニウムの弁当箱の熱さをこらえてフーフー言いながら食べたものだった。
 今でも、なにかのはずみに口をついて出る歌に雪戦会の歌がある。そのメロディーはなつかしい。進軍歌、応援歌、優勝歌の三種類がある。第一節だけを記しておこう。思い出して口ずさむ人々も多いことだろう。

南軍優勝歌

栄冠の城下に集ふ
若人の歓喜の誇り
藻岩の嵐跡なく止みて
児あり 南軍健児

南軍応援歌

原頭城塞嵐吹く
藻岩嵐の今朝の空
健児の胸の高鳴れば
見よや南軍梁血旗

南軍進軍歌

鉄腕唸り我胸おどる
北海晴るる碧瑠空
我等は進まん我等が健児
紅の血潮のかかるまで

北軍優勝歌

北溟晴れて陽はゆらぎ
打贏の歓喜胸に満つ
我等が揚げし勝鬨は
手稲の雄峰に谺して
天空遠く渡り行く
そは 北軍の勝戦

北軍応援歌

北都の空に雪あれて
猛士一千春寒し
大雪原を蹴て立てば
光燦たり北斗星

北軍進軍歌

勇めよ六花の健児
しぶきの只中に
猛闘遂に敵を伏せ
勝利の冠戴かん
進めよ北斗軍
進めよ北斗軍
トラトラトラ北軍

   エピソードを拾う

 五〇年におよぶ歴史と栄光の雪戦会から、二つほどエピソードを拾ってみよう。
  二〇余名が人事不省に
 大正五年、第二〇回雪戦会の時のこと、と思い出を語るのは二〇期卒業の佐藤貢氏(雪印乳業会長)である。
 そのころはバンカラがピークに達したころで、雪戦会は凄惨をきわめました。私は北軍の大隊長をしていましたが、どうしても勝たなければならぬと秘策を練った南軍は、築城違反を承知で城の下部に前夜水をかけて凍らせたので、城の人梯の下級生が滑って倒れ、それを知らずに喚声を挙げて後ろから押しつける上級生の下敷きとなり、二十数人が窒息して仮死状態となりました。
 すぐ休戦となり、全員を職員室に収容して人工呼吸を施して、ようやく蘇生させましたが、この時の戦闘は後の語り草になったほどすごく、顔面裂傷とコブで一週間〜一〇日間も帽子を冠れぬほど顔や頭を包帯で巻いた生徒がおりました。
 この時の雪戦会は見物に来ていた父兄や社会的にも論議の的となり、翌年から雪戦会の規則が変わり、鉄で殴ることが禁止となって平手で押すというようになり、築城にもいろいろ制限がつくようになりました。
 ですから、それからあとの雪戦会は気の抜けたようなものとなって、影が薄くなりました。

  中止反対でストライキ
 大正九年、全世界を不安に陥れたスペインかぜのあとを受けた流行性感冒が流行、雪戦会が中止となった。
 前に触れた人梯の下敷きになって仮死状態になった不詳問題があり、雪戦会の存続が学校当局の悩みのタネになっていた時だったので、当局が危険率の多い雪戦会を、この際廃止してしまおうとしているのだろうというが生徒の間に広まった。
 血気にはやる年ごろである。雪戦会存続を主張する一派はストライキを敢行しても、その意志を貫くべきと集合した。集合場所は首謀者Hさんの下宿である。記録によると、その下宿は北八条の当時の学校近くだったらしいが、集まった生徒が四、五〇人という。いくら生徒相手が専門の下宿屋でも四、五〇人というのは多すぎて眉ツバと思うのだが、記録を信用しよう。その中には級長、副級長もいたし、一年から五年まで全学年がそろっていたという。
 げき文(アジビラ)を模造紙五、六枚に大書し、夜中に運動場に忍び込んで貼った。
 さて、ストライキ当日になった。前夜までの意気はどこへやら。コソコソ登校するものが多かったという。
 ストライキは一日で終わった。学校当局はストライキを不問にし、問題は収まったが、首謀者のHさんは自ら退学した。Hさんは当時、六年目の四年生。つまり落第常習者で、その年も進級おぼつかなかったらしい。そのHさん、学校を去るに及んで言ったらしい。
 「来年、もし雪戦会が中止になってオレの意志がホゴになったら、どこにいても必ず札幌に帰ってきて校長を刺す」。
 翌年、東京で雪戦会開催を風のたよりに聞いて、Hさん、ホッとしたという。
 この話には、まだ続きがある。
 昭和二十四年というから、この事件後三〇年目、横浜に当時の校長山田幸太郎氏(私の在学当時の校長でもあった)を招いての会合の時、このHさんが山田元校長に詫びたという。
 「実は私、先生を刺すと皆に約束しまして」と言うと、
 「そんなこと、あったようだね」と、笑い話になったという。よき、昔の物語りである。
 この稿を書くにあたって私は、母校の周りを歩いて思いを四〇数年前にめぐらせ、母校の同窓会事務局の吉村宏先生から借用した記録を読みながら、心あたたかくなった。
 そのあたたかさとは、去って戻らぬ若い日の思い出が、老いたる胸に沸々と呼び戻す熱でもあったのだろうか。この冬は南高の雪上運動会に行ってみようという気になった。後輩諸君に示すことのできる一つの“あたたかさ”であろう。
 スポーツの前には老人も、同一平面の等距離にあるといってよいだろう。

 2 氷上カーニバル
久保 信

 3 スキー登山
宮田 泰

   スキー登山のはじめ

 札幌周辺の山々が、初めてスキーで登られたことについては、いろいろの雑誌や、新聞などによって、さまざまに記されている。これから書きつづるスキーによる登山についても、それらのものと重複するかも知れないが、まずはじめに、その歴史としてスキーが登山よりも先にスキー技術として、どのように取り入れられたかについて少し触れてみたい。
 札幌はいま人口一四〇万人を超す都市にふくれあがり、市内にある市民スキー場といわれる藻岩スキー場は、最盛期には一日三千人とも、五千人ともいわれるスキーヤーでにぎわっているが、手元にある資料によると、スキーによる藻岩山登山は明治四十五年(一九一二)三月三十一日、今から実に六八年前、農科大学の学生によって行われた。
 その時のエピソードにこんな話がある。一行はまず出発にあたり一杯の茶を飲んで元気をつけた。だが、スキーを肩にしてふと思ったのは、「茶の一杯は門出にあたり不吉の前兆である」ということだ。そこで早朝ながら途中知人の家をたたき起こし、立ち飲みではあったが追加の一杯を所望して出かけたという。また、このスキー登山について、スキーの訓練をわずか三日間しかせずに挑戦したと記されてあり、今から思えば想像も出来ない大変な冒険であった。
 一行の中の稲田昌植は、四月三日に父である佐藤昌介(元北大総長)の在職二五周年の祝賀式があるので、その前に万一間違いがあってはならないと同行を中止したという。現在ではまったく夢想もできない、それほど危険だと思われていた登山であった。それにしてもわずか三日間のスキー練習で登山をしたことを考えると、スキーをはじめてつけた学生のひたむきな気持ちには頭の下がる思いがする。従って、そのころは藻岩山を縦走すると仲間うちでは、えらく幅がきいたともいわれていたようで、藻岩山は当時それほど恐ろしい山であったといえるだろう。

 スキー事始めについては、北大スキー部の歴史がそのまま当てはまるといえるだろう。
 明治四十一年(一九〇八)農科大にドイツ語講師ハンス・コラーが赴任し、その際スキーを持参したのが、札幌にスキーがお目見えした最初である。そしてコラー先生が持ってきたスキーはスキーの訓練に使うという目的よりも、会話の材料として使い、学生たちにドイツ語を教えたということが興味深い。もともとスキーは教室の外、雪の上で足につけるものなのに、教室内でまず耳に入れることにはじまったというところは、なかなかおもしろい着想である。後年全国で活躍をした北大スキー部の歴史の始まりが、いわゆるたたみの上の水練であったわけである。
 だが考えようによっては、コラー先生のこうした教え方は、ある意味で教育本来の姿というべきものであるのかも知れないし、むしろ卓抜な着想であったというべきではないだろうか。そしてこのように教室の中で始まったスキー熱は若い学生たちの間で次第にエスカレートし、コラーの引き止め策も全く効果がなくなるほどであった。まず学生たちは大学構内のローンで足ならしをし、三角山のふもとで戸外の実地訓練を行うようになるのだが、こんなところにもよく学び、よく遊べという当時の学生本来の姿がうかがわれる思いがしてならない。

 札幌近郊のいわゆるスキーツアーについては、やはり手稲山から始めるのが順序であろう。だが手稲山についても北大にゆかりのある人のたどった歴史的な事柄がたくさんある。具体的な登山コースなどをつづる前に、そのいくつかについて触れてみたい。
 まず現在の手稲駅(古くは軽川駅とよばれていた)からテイネオリンピア(昔われわれの仲間は千尺高地と呼んでいた)を経て手稲山へ登ったのは大正六年(一九一七)の春であったという。そしてそれ以前は発寒の沢を登りつめて、かなり苦しい行程を強いられた。従ってスキーについては、かなり達者な人でなければ登れなかった。
 記録によれば当日は暗いうちに家を出、琴似から前もって用意した馬そりに乗って出かけたという。今日では想像もつかないものといえる。またこの前年の一月、吹雪の中を必死の思いで手稲山の頂上近くまで登ったものと信じ「万歳」を唱えて引き返した猛者がいたが、それはなんと標高三〇〇にも満たない、手稲山から独立している小山であったという笑えない逸話も伝えられている。まさにあり得て当然でもあり、今昔の感にたえない話というべきであろう。
 この一年後には手稲山へ登るため、雪中露営をやってみたり、かなりきつい訓練を重ねたというが、こんなことが後年スキー・ヒュッテを造ろうという下地になったものであろう。
 こうした気運が北大スキー部創立一五周年記念行事として大正十四年(一九二五)に具体化され、パラダイスヒュッテの落成につながったのであるが、このヒュッテの設計がコラーの親せきである建築家の、マックス・ヒンデルによって行われたというのも、何かの因縁といえるであろう。
 とにかくこのようにして、教室の中で自然発生的な形で生まれたスキーが、スロープを滑るという、いわば遊びから、登山をする過程を経て、スキー術の指導、あるいは宣伝へと移っていったのも当然であったといえる。またスキー登山に当たっては、午後二時以後は行動を避けて、必ず引き返す原則を貫いたという。このように引き返す勇気を失わずにいたことが、事故から身を守る大きな原因であったことがうなずかれ、このことは今日でもそのまま当てはめられる原則ということが出来る。

 当時の軽川も今ではその名も忘れ去られてしまったが、手稲山の北東部に当たる一角に光風館というささやかな建物があった。ここに一時期北海道スキー協会の本部が設けられたことがあり、当時北大の学生たちは館主の好意によって、一円足らずの金で土曜、日曜にかけてかなりうまいものを食べたり、湯につかりながら遊んだという記録もみえる。私の記憶では昭和の初めごろは距離競技のたびに、必ずといってもよいほど、長距離競技の関門と競技係員の拠点として利用されていた。
 スロープが開発され、リフトが数多く開設された現在では、わずかな冷泉をあたためて細々と経営を続けているというが、時の流れがいまさらのように思われてならない。
 光風館の西方に大曲りコースというところがあった。このコースは当時、北大でスキーの実技にかけては第一人者の指導者でもあった遠藤吉三郎によって命名されたもので、手稲山への登山は当初、千尺高地(現在のオリンピアスロープ)を経てたどり、帰りは手稲山の北部五〇一のところから降るもので、この大曲りコースを経て軽川駅(現在の手稲駅)へとツアーした記録が数多く見られる。私も登りと降りはコースを変えてみることに興味があり、またこのコースは当時としてもゆったりとして、幅も比較的広く、眼下に石狩湾を望みながら降るのが、ほかにないだいご味もあり、かなり利用した一人である。
 これは少し余談であるが、ある年、四月のはじめごろであったろうか、友人の一人がこのコースを降る途中、ふと海に眼をやると、海の色が乳白色にみえる、頭の回転の早い彼はとっさに「鰊の群れが産卵に押し寄せてきた」と判断し、札幌へ帰ってから早速、友人の誰彼となく話を伝えたが、あまり反応がなく、折角のホットニュースも左程もてはやされなかったのは少々気の毒でもあった。しかし今考えてみても、あの線の鰊の豊漁ぶりから当然のことでもあったろうと、春山スキーにちなんだ一齣として思い出されるものがある。

   スキー登山発祥の手稲山

 さて手稲山についての前置きが少し長くなったが、この辺で手稲山そのものについて記してみたい。標高こそ一〇二三と決して高いとはいえないが、北海道におけるスキー発祥の山であり、この山と札幌の自然、あるいは観光とのつながりからも親しまれた山であるといえよう。頂上からの展望もすばらしいものがある。今はゴンドラに揺られながら運ばれるが、それでも楽しい眺望であるから、汗を流してたどりついた身には、とりわけすばらしいものがあった。
 北に石狩湾を見おろし、東から南にかけては、銭函天狗にはじまり、奥手稲、迷沢山、百松沢山、砥石山、そして藻岩山に終わる山なみと、春香山、朝里岳、白井岳、余市岳、さらには無意根山に至り、迂回しては、札幌岳、狭薄岳、空沼岳、漁岳、さらには恵庭岳に通ずる一脈をのぞむことが出来る。そして迷沢山を越えた彼方には天狗岳の峻険な山容を見ることが出来る。また遠く南西の方に羊蹄山のそれこそ秀麗な姿をのぞむことが出来る。
 とりわけ春の陽光を浴びて、あの長くのびた頂上の一角に腰をおろして、これらの山々をのぞみ得た感慨はそれだけに深く、スキーによる登山のよろこびを十分に味わい得たものであるといえる。同時に山と雪に親しむ者にとっては、いつの日かこれらの連峰を歩み続けてみたいという念願に駆られるのも当然のことであろう。
 このように標高こそ一〇〇〇そこそこの山でありながら、札幌の西と南を囲む山のすべてを望むことが出来、また札幌の市内からは望み得ない石狩の海も間近く眺められるという好条件の山である。現在ではバスとゴンドラによって、きわめて容易にその頂に立つことが出来る。五万分あるいは二〇万分の一の地形図を携えて、その頂のひとつ、ひとつを確かめるのも、この頂に立つ幸せであるといえる。
 また現在のテイネオリンピアのあたりは、パラダイススロープとよばれ学生に親しまれたが、これはさきに述べた遠藤吉三郎が名付け親であったというが、同先生は地名などは北海道にはアイヌによってつけられた立派なものがたくさんあることから、古来からのものを大切にした先生であった。しかしこのパラダイススロープについては先生自ら「ここをパラダイススロープとはどうだろう…」と学生を顧みて命名をされたというエピソードがある。
 後年このスロープ上のくぼ地に建設された小屋が「パラダイスヒュッテ」と名付けられたのもなにか因縁ともいうべきものがあるように思われてならない。またこの小屋については昭和五年(一九三〇)前後から一時期、春先に繰り広げられた、いわゆるパラダイス合宿は、スキーに取り組んだ青春の思い出として、北大以外からも、さらには市内の当時の中学生までも参加したほど、不思議なムードに包まれたものであった。
 ある年、あれは三月の末であったろうか、友人と約束をして札幌駅から夜の汽車で出かけたことがあった。しかし軽川の駅へ降りてみたが、その友人の姿が見えない。しばらく待ってはみたが、結局独りで登ることに腹を決め、当時駅前にあった小さな待合所(それは田辺さんという家であったが)で名物のまんじゅうを買い込んで、ぼつぼつ登って行った。
 気温も左程寒くなく、夜道を急ぐ身には、程よい汗で行程もはかどったが、途中千尺高地付近で林のはずれに星がひときわ冴えた光を放っており、それがこの山に住む魔物の眼のように感じられた。そしてこれはこの山にスキーをつけたまま、自らの命を絶ったある先輩の亡霊となにかつながりのあるような気持ちにかられ、急にピッチをあげて小屋にたどりついたことであった。このヒュッテもすでに半世紀を越える時の流れには逆らえず、近く解体されると伝えられるが、一抹の感慨を禁じ得ない。

   春香山と奥手稲

 手稲山についてはまだ記さなければならない事柄が多いが、紙数の関係から、この山に続くコースに入ろう。
 主なコースとして、まずあげたいのは春香山(九〇六)と奥手稲(九四九)を中心としたものである。春香山は通常銭函から入るが、途中、十万坪と称する平坦なところを銭函川にいながら銭函峠に登り、春香山の北側にあたる斜面に出て、その頂上へたどるのであるが、峠までの道はどこまでも右山の連続で、ちょっと退屈を感じないでもない。だが、春香山の広い斜面をたんのう出来るすばらしさと、銀嶺荘で親しい仲間ともつひとときを思えば、左程のアルバイトとも思えないであろう。また春香山からの眺望も石狩湾の左手に小港がのぞまれ、九〇〇の頂とは思えないものがある。
 ここから銭函へ降るコースとしては、和宇尻山から北東の尾根をたどるもの、和宇尻山鞍部八〇〇付近から西北へ走る尾根をたどるコースなどある。二〇年ほど前であったか、北東の尾根を降りたことがあったが、カラマツの樹林帯が密生しており、ひどく苦労をした記憶がある。現在はどうであろうか。
 また銀嶺荘は北海道新聞社によって建設されたもので、収容人員も五〇人を超えるほどの設備をもち、春香山に対するスキー愛好者の関心をよんだものである。まことに親しみのある小屋であったが、最近の状態については、確かめていないのが心残りである。

 春香山と銀嶺荘に続くコースに関連しては、ユートピア(九九四)と奥手稲山の家を利用しながら歩くツアーをあげるのが順序であろう。
 ユートピアは奥手稲山の家のすぐ右手にあたる一帯が、トドマツ、エゾマツを主とする美しい針葉樹林で、この一帯はすばらしいゲレンデになっていた。いつの時代からユートピアなどと名付けられたか不明であるが、その名にふさわしい、スキーヤーにとっては、まさに理想郷であった。
 昭和六年(一九三一)国鉄によって建設された奥手稲山の家は、ユートピアのふもと、標高八〇〇のところにあって、札幌を囲むツアーコースのうちでは、常に新雪に恵まれ、積雪も一〇を超えることが多く、先に述べた春香山、迷沢山(一〇〇五)への足がかりとなり、深い山の中へ入った趣のある小屋であった。
 この小屋が出来た翌年、三月の休みをこの小屋に数日を過ごしたことがあったが、もの好きにも折からの月明を利用し夜間スキーを試みようと、友人と誘い合わせて付近の林を歩いたことがあった。なにかおとぎの世界に遊んだようなふん囲気で、まさにユートピアという夢幻の世界そのものであった。
 奥手稲にスキーによる登山が試みられたのは大正十年(一九二一)の一月というが、歴史的にみても、またツアーコースとしても価値ある一帯であると思われる。今のスキーヤーにはあまり関心をよばない、いわば盲点でもあろうか。それだけにツアースキーをたんのう出来るところであると思われる。
 また迷沢山付近もすばらしいスロープが開け、ユートピアとならんだ遊び場であった。頂上付近は比較的平坦で、北と東へ延びている尾根を歩いているうちに、そこに出来ている雪庇に注意しないと、よく迷わされたと、先輩の話を聞いたが、迷沢山とは山頂にその由来があるのか、付近の地形によるものか、確認を得なかった。

   札幌岳と空沼岳

 札幌から定山渓へかけては札幌岳(一二九三)空沼岳(一二五一)を中心とするコースと、豊平川を隔てて西方になまこ型に大きな頂をのぞかせる無意根山(一四六〇)を中心としたもの、さらには豊平川の支流、小内川をさかのぼり、朝里岳(一二八〇)白井岳(一三〇一)へと歩くコースがあげられよう。
 札幌岳は市内からも望見されるが、頂上の北側がえぐられたように急峻な山で、その特徴を簡単にとらえることが出来る。この山へのツアーコースは瀧の沢からのぼるものと、定山渓から駅前の国道を経て、豊平峡入口から冷水沢をのぼり、標高九八〇のところにある冷水小屋を経てたどるものがある。しかし私はむしろ空沼岳から狭薄山(一二九六)を経て札幌岳にツアーを試み、冷水沢を降るルートをお勧めしたい。
 昭和八年(一九三三)二月、祝日の朝を万計沼の上で迎えたことがあった。空沼小屋の入口に日の丸を掲げたあと、さらに沼の上に移して祝い、頂上へ向かった。真冬の空はあくまで晴れて、雲ひとつ見えないほどの日和にめぐまれ、頂上ではスカブラの美しい連続、あまり大きくはないがいくつものモンスターが頂上の景色に風情を添えていた。さらにそれらを前景とした恵庭岳と、その裾に大きく広がる青い支笏湖は、まさに圧巻であり、祝日をこの山に迎えた仲間にとって、天の与えた、すばらしい贈り物であった。
 空沼岳から狭薄山へのコースは指導標も見えなかったが、北西へ延びて続く尾根は変化に富み、かなり長い降りがスキーには快適である。狭薄山から札幌岳へは、北に面したスロープを降りながら、北西への尾根を登りつめて札幌岳へ至るのであるが、狭薄山は南側がかなり切り立っており注意する必要がある。冷水沢へ降るコースは指導標も見え、一〇ほどのコースは、左程むずかしい技術を要しない。冷水小屋は昭和八年(一九三三)秋に建設され、その後、火災による焼失という災難に遭っているが、後に建て替えられて、今では札幌周辺の山小屋としては、一番しっかりしたものであろう。

   無意根山

 無意根山(一四六〇)も札幌周辺の山として見過ごすことの出来ない、また一二〇〇付近から続く真っ白な尾根は、きわめて特徴があり、スキーを楽しむ人にとっては親しめる山であるといえよう。歴史的にも大正十年(一九二一年)一月、スキーによる登山が行われた記事も見え、さきに述べた奥手稲登山と同じ時期であるのも興味深い。
 この山へのツアーコースは、このごろでは豊羽鉱山を経るのが通常のようであるが、以前は定山渓から薄別温泉を経るのが一般的であった。無意根小屋は無意根山の東北面、標高ほぼ九〇〇の地点にある。昭和六年(一九三一)の秋、大野精七氏の格別の力添えで完成したものである。ツアーコースとしては薄別口の方が豊羽鉱山のそれより四ほど長い。現在、バスが豊羽鉱山まで入っているが、コースは豊羽の本山から指導標にって進み、薄別口へ降るコースをとる方が滑降を楽しめるので、お勧めしたい。
 豊羽からは三ほど、長尾山(一二〇六)を目指して進むと、広い稜線が見えてくる。このあと尾根に続く西寄りの稜線を行くと尾根は少し狭くなってくるので注意しなければならない。そしてこの尾根はいつも波状のクラストが続き、スキーには必ずしも快適とはいえない。しかし頂上の展望は、札幌近郊の山にしては珍しいモンスターが見られ、有名な蔵王山のそれには及ばないとしても、西方に立ちはだかる秀麗な羊蹄山、その右に連なるニセコアンヌプリの白銀の峰々、北側に眼を転ずれば岩肌もあらわな天狗山(一一四四)の怪異な姿を望むことが出来る。
 通称シャンツェと呼ばれる南東側へ延びる一二〇〇付近のゲレンデは見通しもよく、ブッシュもないので、すばらしい斜面である。さらにこれに続く東側の斜面は、少し急であるが、ダケカンバのまばらな間を抜けると、もう小屋が近付いて見える。
 十数年前になろうか、このコースをたどって春山スキーを楽しんだことがあったが、ダケカンバのある稜線から望んだ小屋付近の樹林帯は、過ぎる年の台風で跡形もなく、深い雪の中に小屋がポツンと見えるだけで、自然のいたずらとはいえ、空しい想いで立ちつくしたことであった。
 小屋から薄別へは通称電光板というちょっと急な斜面がある程度で、四ほどの降りは一般向きのコースとしてお勧め出来る。また無意根山を経て中岳(一三八七)並河岳(一二六五)喜茂別岳(一一七六)へ足を伸ばすことも一興であろうが、雪質はほとんどクラスト状態のことが多く、これに要する時間もかなりのもので、スキー技術と体力の面から慎重を期する要がある。

   ヘルヴェチヤヒュッテから

 ヘルヴェチヤヒュッテを根拠にしてツアーを試みる山としては、余市岳(一四八八)朝里岳(一二八〇)さらには白井岳(一三〇一)と、とりわけ春先のツアーに格好の山が並んでいる。ヘルヴェチヤヒュッテは昭和二年(一九二七)北大の山崎春雄、外人講師のアーノルド・グブラーらの浄財によって建設されたもので、現在では定山渓、小を結ぶバスが通じているが、その横、小内川の白樺林の中に、ひっそりと建設当時の面影を残している。
 この小屋が建設されたころは、通常銭函峠を経て来るものであったから、行程もかなりのものであった。宿泊可能な人員は、せいぜい二〇人というこぢんまりしたもので、この小屋を囲む白樺の林とともに風情あるムードがあった。
 なおヘルヴェチヤという由来であるが、これはスイスの山の神さまをあらわすとグブラー先生からうかがったことがある。また余談ではあるがスイスの切手にはみなヘルヴェチヤの文字が刻まれているというが、風光明媚な国柄を物語っているものといえよう。
 さて朝里、白井、余市の三山は、前述のように、いずれも標高一三〇〇、あるいはそれ以上で札幌近郊の山としては、最も高いものであり、冬季における天候はあまり期待することは出来ない。また三月以降の晴天の折でも、強風によって登行が困難なことがある。とくに朝里岳の平坦な尾根は、クラスト状のことが多くスキーには必ずしも快適とはいえない。
 登山コースとして天候に恵まれた場合、ヘルヴェチヤから白井岳側の沢に入り、八〇〇付近の尾根を登り、頂上東北側のがけの近くを経て進む。白井岳からは尾根を西方に進みながら、朝里、余市の中間尾根に至るのであるが、このあたりは広い尾根で十分な注意が必要である。ここから地図上の境界線上を余市岳に向かって進み、一四八八の頂上に達する。そしてこのあとは朝里岳にコースをとり、東北側一〇九七より東方に向かって降るのが通常である。
 しかし昭和五十三年冬に開設された定山渓高原国際スキー場のにぎわいぶりは大変なもので、ヘルヴェチヤヒュッテを根拠としてのツアーなどは、すでに遠い夢物語というべきであろう。従って小内川のきれいな水を汲み上げて食事をし、ツアーを試みたことなどは、ゴンドラに身をゆだねて朝里の頂上近く、一一〇〇まで登れる現在では、まさに伝説としか受け取られないのではあるまいか。

 以上で札幌の近郊を囲む山々と、とくにスキーに関連した登山について走り書きを試みた。古くは北大のローンから藻岩山にはじまり、手稲山にちなむいくつかのコース、春香山、奥手稲、さては定山渓方面のツアーコースなどについてつづってみたが、これらはいずれも古い資料と、それに基づく回想によったものである。従って、今日ではこれがどの程度あてはまるものか一抹の不安もある。
 また時間的な詳細についても、ツアーのための案内書でもなく、古い資料と記憶では、かえって混乱を招くことにもなるので省略した。ここに記した状況と今日では比較にならないものが多いであろう。森林を例にしてみるユートピアの一帯は昭和二十九年(一九五四)の台風により大きな被害を受け、昔日の面影は全くないという。道路事情も大きく変わっていることも当然である。ここに記したコース全般について、現況をもっとつかみ得ないことは心残りのするところである。
 なお、手稲山については永峯沢の降りコース、先人のひらいたネオパラダイスのツアー、最近では西野へ降るコースもあるが、紙数も尽きたので省いた。

   おわりに

 札幌におけるスキー事始めは、やはり北大を抜きにしてはつづることが出来ない。そのため、それらの関連について少し長くなったことにご了承を得たい。
 ある先輩によれば、学校で勉強をすることより、山とスキーを楽しみ、仲間と共同自炊をしたが、その借家はまさに貧民(くつ)そのものであった。ために外部の人からは、学生と鉱山師が一緒にいるのではないかと思われたという。それは、日曜でもないのに天候がちょっとよいとスキー姿や登山するような服装で出入りするのが普通であったことによるという。だから学校の教授たちよりも、山へ行った仲間の方が心に残っているという話を聞いたが、面白いと思った。
 いにしえの札幌、それは屋並が低く、幅広い通りが町中を貫き、そのどこからも手稲山が望まれた風情をしのびながら、登山に因んだスキーのことなど、そこはかとなく書きつらねた次第である。

【参考文献】
『北大文武会スキー部創立十五周年記念号』(大15・12)
『北大文武会スキー部報第一号』(昭5・12)
『北大文武会スキー部報第二号』(昭8・12)
北大文武会スキー部『スキー地図』(昭10・1)
稲田昌植『銀界三十年』(昭13・11)
『北大文武会スキー部班報』(昭15・12)
札幌鉄道局『札幌、定山渓スキー地図』(昭35)

第五章 こぼれ話

 1 話題を追う
小原 正巳

   死の耐久レース

 昭和二十四年二月四日、札幌地方は気温がプラス三度となって、雨が降り始めたが、折から行われていた「第四回北海道スキー選手権大会兼国体・全日本道予選」の耐久五〇レースは予定通り午前十時から開始された。
 雨は(みぞれ)にかわったが、私は二六の地点の盤渓給食所で中間ラップタイムをとっていた。午後になっては強い雨となり、強い風も伴って、参加選手は苦しいレースを強いられた。私は盤渓峠から円山競技場の会場までスキーで滑ってきたが、この間に全身ずぶぬれとなり、下着までびしょびしょになってしまった。当時、防寒、防水用の競技用衣料がなかったせいもあったが、記者室用のテントで乾かそうとしたシャツは、手でしぼると、ざーっと水が出るほどのものすごいぬれ方だった。
 取材記者の私たちがそうだったから、長い時間走っている選手たちはもっと大変だったに違いない。元気で走破し、優勝した落合力松選手でも、下りコースではユニホームががりがりに凍ったというほどの悪コンディション。雨は再びにかわり、冷たい風は容赦なく選手のユニホームに吹きつけ、ぬれた上衣、ズボンをがんがんに凍らせる。
 選手は疲労し、走力が落ちれば降る、吹く風は選手の体温をどんどん奪っていく。井華赤平の佐藤光雄選手は、悪戦苦闘、実に七時間七分の末、よろめきながらゴールにたどり着いた。佐藤選手のゴールは、鬼気迫るというほどのすさまじさだった。夕闇が会場を覆い始めた五時近く、一歩進んではよろめき、二歩進んではストックにすがって、今にも倒れんばかり。
 僚友の井華赤平スキー部員は、必死の力走を続ける佐藤選手が、ゴールを目前にして倒れかかるのを「がんばれ、がんばれ」と励ましながら、抱きかかえるようにしてゴールインさせた。この時佐藤選手の意識は既にもうろうとしていたのだろう。ゴールインと同時に倒れてしまった。極度の疲労と空腹、そして体温の低下は佐藤選手を仮死状態にしてしまっていた。選手控室に寝かせて医師が人工呼吸を施し、カンフルを注射して一時は意識も回復して、わずかに元気が出、牛乳などを採ったものの、午後六時二十分、遂に不帰の客となった。
 佐藤選手の事故で大騒ぎの大会本部は、さらに凍るような緊張に襲われていた。全関門員、全コース係員が引き揚げてきて、出場者、完走者、棄権者を点検したところ、二人の選手が“未帰還”とわかった。大会関係者も報道関係者も「これは大変なことになった」と、騒然となった。
 宮村距離競技係長はじめ全役員は、タイマツを持って数班に分かれながら、猛吹雪の続くコースに三菱美唄の綱木義太郎、札幌工事局の干場行光の二選手の捜索を続けた。だが夜に入って吹雪はますます激しくなって捜索が困難となったため、やむなく中止し、翌二月五日は早朝からさらに札幌スキー連盟、札幌逓信局、札幌電気通信工事局関係者ら、約七〇人による大捜索が続けられた。
 この日の捜索も降りしきる、雨をついて続けられたが、綱木選手は四日夜半、藻岩山下の鉄道弘済会食糧化学工場に収容されて、無事でいたのを発見、あとは干場選手だけとなった。藻岩山を中心とした必死の捜索は夕方まで続けられた結果、五日午後五時半ごろ、干場選手は札幌市南二十八条にあった山鼻墓地(現在の札幌南警察署)から三〇〇藻岩山に登った地点で、凍死体となって発見され、二二歳の若い命を断ってしまっていた。
 34番のゼッケンは雪面に凍りついていたが、干場選手は両手にしっかりとストックを握り、眠るように目を閉じていたという。
 この“大事故”は、その後の調査の結果、佐藤光雄選手が、同じ井華赤平の高橋幸選手の身代わり出場であり、年齢も出場資格の二〇歳に達しておらず、“ルール違反”だったこともわかって、二度関係者を驚かせた。
 「死の耐久」は、二人の尊い犠牲を出し、数多くの教訓を残して終わったが、当時の野村五十治コース係長も今は亡く、宮村六郎距離競技係長は、責任を一身に負って、以来スキー関係から一切身を引いてしまった。スキー関係者にとっては、二人の犠牲者と同じように宮村氏を失ったことは大きく、今でも残念に思われてならない。

   “スキーの王様”関口 勇

 ノルウェーでは、複合競技のチャンピオンを「キング・オブ・スキー」といって賞讃しているという。“スキーの王様”というんだろうが、スキーはいわゆるノルディックだけではない。滑降、回転のアルペン競技も立派なスキーである。もし「走る」「飛ぶ」「滑る」「曲げる」の四競技の“複合競技”が行われたら、その勝者こそ真の“スキーの王様”といえるのではあるまいか? そんな選手は現在見当たらない。だが、過去にはそうした“オールラウンドプレーヤー”はいなかったろうか? と探してみたら、本当にいたのである。その名を「関口勇」。
 関口は北海商業の出身、現在の北照高である。北商時代関口は野球部にあって、名中堅手として鳴らし、ジャンプの方は名門小中学の安達五郎、小商業の四ツ谷勇とともに外野手だった名ジャンパーの下風に立っていた。だが、生まれつき負けん気の関口は北商卒業と同時に猛然とジャンプに挑戦、職場の南小駅では勤務を夜勤にしてもらい、昼の間は札幌の荒井山シャンツェで猛練習を重ね、昭和五年の大鰐での全日本大会で堂々と優勝を飾った。
 関口は昭和七年、レークプラシッドの日本代表に選ばれながら、渡航の船中で発病し、単身バンクーバーから帰国しなければならなかった。この時から関口は複合選手に転向して、昭和十年の全日本選手権を獲得し、十一年のガルミッシュ・オリンピックに出場した。
 ガルミッシュで、滑降、回転のアルペン競技を見て来た関口はすかさずアルペン競技に転向し、十二年から全日本選手権に加えられたアルペン競技に出場、ここでも回転競技に優勝、滑降は惜しくも三位となったが、“新複合”といわれた初のアルペン競技のチャンピオンとなり、一人で実に全日本四種目のタイトルを獲得する偉業を成し遂げた。
 近代スキーがそれぞれスペシャリストを必要とするこのごろ、関口のようにノルディック、アルペンの四種目の権を取ることなどは考えられず、この記録は不滅のものとなるだろう。
 関口はまた、ボクサーとしても庭球選手、あるいは水泳選手としても一流であり、戦後はゴルフにも傑出した技をみせ、関西アマ選手権にも優勝している。この関口選手の転身の鮮やかさは前記のようだが、独自のセンスはまた普通人をはるかに越えたものがあった。
 関口がジャンプに精を出していた昭和六年ごろ、既にジャンプの王者だった関口は、下着に現代風の縞のパンツをはいていたというのだ。アメリカ遠征前の関口がどこから見つけてきたかは知らないが、誰もがメリヤスで作られたダブダブの猿股をはいていた時代にである。彼の卓抜なセンスと先見の明、天才的といわれながら、不眠不休ともいえる練習を続けた、彼関口もやっぱり努力の人だったのである。

   カラスに悩まされた氷づくり

 日本で初めてという、世界スピードスケート選手権大会の開催が札幌と決まり、円山競技場でのリンク造りが、昭和二十八年の十二月初旬から始まった。旧満州(現在の中国東北部)のように雪の少ないところは、本格的な丘リンクといって、土の上に水をまき、寒気で凍らせる方法だが、札幌のように比較的暖かく、日照時間の長い所では地面が太陽熱を吸収して氷が早く解ける。そこで雪を踏み固め、その上に水をまいて凍らせる方法が採られた。製氷責任者は「製氷部長谷木繁太郎」だった。
 この年は降雪が少なかったので、付近の山から雪を集め、それを踏み固めて水をまき、氷づくりを始めるのに約一カ月もかかった。水をまいては凍らせ、凍らせてはまく作業の繰り返し、製氷関係に携った谷木部長はじめ関係者は、総合グラウンド二階の詰め所に寝泊まりして、仮眠をしながら二四時間体制で作業を続けていた。
 札幌の円山競技場周辺は、俗に「カラスが森」と呼ばれるほどカラスの寝ぐらのあるところ。夜明けともなるとエサを求めて羽ばたくカラスの活動が始まる。カラスが飛ぶだけならどうということもないが、そこは鳥だから飛びながらフンをする。これも生理作用でカラスにとっては当たり前の現象。ところがこのフンが氷の大敵、滑りが悪くなるのはいうまでもないが、フンが太陽熱を吸って氷に穴をあけるので、このフン掃除も大仕事である。
 そこで考えたのが、カラスを競技場から追っぱらう方法だ。「鉄砲が一番よい」という結論になり、猟銃を借りてきて空砲をつめておき、カラスが集まってきたら「ドーン」と一発ぶちかます。カラスは利口な鳥なので、危険だと思ったらあまり近付いて来ない。毎朝、毎夕空砲を空に向けてぶっ放すのも“製氷係”の大切な仕事となった。
 それにグラウンドの周囲には針葉樹林もあって、細かい木の葉が飛んでくる。これもカラスのフン同様の大敵、一日中三、四〇人の作業員が「カラスのフンはないか」「木の葉は落ちていないか」と目をさらのようにして、自分の警戒範囲を見回る。水をまくのは夕方から夜間が多かったが、零下一五度以下の寒さになると、氷が膨脹してヒビ割れする。このヒビの修理がまた大ごと。雪しぶや水を塗り込み、急造のザンボニ(製氷器)=ドラムカンに穴をあけ、ゾーキンをつけたものをソリに乗せて引く=で氷面を滑らかにする。今から考えると想像も出来ない苦労をした。
 その結果、この時の札幌の氷は外国選手、特にソ連選手などには大好評だった。その証拠は、二週間後に行われた国体スケートで大会記録が次々と更新されたことである。コーナーワークのまずい選手は、スピードが出過ぎて転倒者も続出したという。

   鞍馬シャンツェとスノーホッケー

 昭和六、七年ごろ、札幌・山鼻方面は住宅地というより畑の中に住宅があって、冬になるとあたり一面が“雪野ケ原”といった風景だった。冬の間中スキーに明け暮れた悪童どもは、春の息吹の感じられる三月初めともなると、学校へは“堅雪”を渡って畑の道を近道登校するのが常であり、そのころにはスキーにも飽きて、夏向きの遊びはないかと動き回るのが常だった。
 あたり一面は雪の畑、その雪を踏みしめ、四角い運動場をこしらえて、風当たりの少ないところで始められたのが、アイスホッケーならぬ「スノーホッケー」。長靴にフィールドホッケーとアイスホッケーの中間のような、棒に板切れをぶちつけただけのスティックで、スポンジボールを叩き合う。もちろんゴールキーパーもつけてだ。だが、人数が少なければ少ないように適当に“ルール変更”して遊ぶのが子供たちの特技で、変幻自在の遊びだった。
 だが、一番困ったのがスティック。叩き合っているうちにすぐ壊れたり折れたりする。「丈夫で長持ちする理想的なものはないか」と考えた末、思いついたのが、山の斜面に自生している曲がった自然木。「こいつが最高」と僕と兄はよく朝早く藻岩山の山中に分け入って探し回った末、径一〇ぐらいの曲がったイタヤ、エンジュなどの木を切り倒してはスティックを作った。いわゆる天然自然林の盗伐だ。この盗伐スティックが威力を発揮したのはいうまでもない。
 このスティック探しの最中に、偶然藻岩山中でジャンプの練習に手ごろな場所を見つけ、雪の台を造って四月初めごろまで練習をしていた。僕が札幌一中の一年、兄が北海中の五年、昭和八年の春だった。この年、僕は無理やりにスキー部に入部させられた。兄がジャンプをやっていたこともあったが、練習しているところを、当時の一中スキー部長錦戸善一郎に見つかってしまったからだ。入部して間もなく、「藻岩山中での練習」を知った錦戸部長を筆頭とする一中スキー部OB連は「よしそこにシャンツェを造ろう」と衆議一決して、この年の八月、寄付三〇円と、OB、現役らの労力で造り上げたのが「一中シャンツェ」だった。
 この山深いシャンツェは、今の地崎宇三郎邸から、沢伝いに約五〇〇から六〇〇登った地点。OB、生徒が夏休みの毎日、スコップ、ナタ、ツルハシを担いで山に入ったのだから話題にならなかったのも不思議だが、別に木を盗伐して売るつもりでなかったのだから、全員胸を張って作業を続けた。側を掘り、木で沢に橋を架けることなどは本職の土木作業員に頼み、三〇円の寄付と関係者の労力奉仕で、飛距離二〇のシャンツェが完成、「さあこれからは円山の北大シャンツェまでいく必要はない。練習は十分出来るぞ」と、張り切った途端、このニュースが新聞に報道されたからたまらない。
 新聞に出た翌日、すぐさま札幌営林署から呼び出しを受けた錦戸部長は、「生徒を使って天然林を盗伐するとはもっての外、三年以下の懲役だ」とのきついお達し。これには強気の錦戸先生もびっくり、八方手を尽くした末、当時の道庁の林務部長だった一中OBの林常夫氏に頼み、ようやく始末書一枚で手がうしろに回らずに済んだ。切った木は全部枯損木として焼ばんを押してもらい、一中シャンツェはようやく陽の目を見ることとなった。
 翌昭和九年、たまたま一中シャンツェでの練習を見た河合裸石氏(当時の北海タイムス=現北海道新聞=社会部長)が、「ウーン、これは牛若丸の鞍馬山の修行にも似た猛練習だ」と感嘆、即座に「鞍馬シャンツェ」とニックネームをつけ、それ以来ジャンパーから「鞍馬シャンツェ」と呼ばれるようになった。このシャンツェも戦後米軍が藻岩スキー場を開発した際、リュージュコースを造ったため壊されてしまったのは、まことに惜しい限りだった。

   鉄人「栗谷川平五郎」

 昭和五十四年の秋、そろそろ“週休七日制”に近くなった一中OBの一人が音頭を取って「一中スキー部OB会」なる会合を持った。大先輩の栗谷川平五郎さん、元北大の農学部長だった足羽進三郎さん、元北海道教育長だった山本武さん、当麻からは町立病院長をしている同期の岡部彰君が、真っ白になった頭と真っ黒くゴルフ焼けした元気な顔をみせてくれた。
 「これから一年に一回か二回、生きているうちは元気に語り合おうではないか」と、幹事役の上島信先輩が提案して、栗谷川大先輩を幹事長に押した。この会には残念ながら一番先輩の錦戸善一郎先生は、病気入院中で出席してもらえなかった。昔の一中スキー部は錦戸先生を「親分」と呼び、鉄人と呼ばれた栗谷川先輩を「クリさん」と失礼な呼び方のようだが、計り知れない尊敬と親しみを込めて、そう呼びならわしていた。
 クリさんは、二年先輩の岡村源太郎の「ディスタンスレースは、スキーを滑らせて走るものだ」との理論に傾倒、それを実施するには、何が一番大切かと考え、それには「ストックで押す」ことがベストであるとの結論に達し、身をもって実行した偉大なランナーであった。押すためには腕力はもちろん、背筋力、その他上半身の筋力を鍛錬しなければならない。そのためには重量挙げ選手のようなトレーニングが必要…と、本格的なウエートトレーニングを始めた最初の人である。
 伝説には「トロッコの車輪」といわれていたが、事実は東京の大井町にあった叔父さんの鉄工場に頼み、いまのバーベルのような“腕力鍛錬器”を作ってもらい、この六〇に近いマシーンを毎朝、毎晩差し上げてはパワーをつけ、エキスパンダーをまくら元に置いては、眠っている時以外は鍛錬を怠らなかった。クリさんは一中卒業後、札鉄に勤務したその昭和三年、札幌で開かれた「第二回全日本選手権」の三〇に出場した。当時さして有名でなかったせいでもあるまいが、ゼッケン一番を引き当ててしまった。
 コース整備も完全でなかった当時、早いスタート番号を引いてしまった選手は“ラッセル”といわれ、コースの除雪が役目のようなものだった。ましてこの日は雪降りしきる悪天候、栗谷川選手はそうした不利を一気に吹き飛ばし、二位を問題にせずに首位を奪い取ってしまった。まさに“スーパーマン的デビュー”といってよかった。このレースで栗谷川選手は、荒井山下から盤渓峠の頂上まで、例の腕力に物をいわせ、二段滑走で押し上がったというのだから、見ていた選手、ファンは目を見張ったもので、それ以来「押しの栗平」として、全日本のスキー界にその名がとどろいた。
 栗谷川選手の家は、南一二条西一七丁目。ボデービルで体を鍛える一方、毎日藻岩山の登山道を頂上まで走って登ることを欠かさなかった。雪が降っても、ヤリが降ってもクリさんのランニング姿が藻岩山の登山道に見られぬ日はなかった。鉄人栗谷川平五郎の鉄のごとき意志の強さといってよいだろう。思ったことは必ず実行したクリさんの偉大さは、常人には到底真似の出来るものではなかった。
 過日の一中スキー部OB会の席上、クリさんは珍しく藻岩登山練習の話を披露したあと「僕の練習が一人のお百姓さんの気分を振るい立たせるのに役立って感激した。後年、偶然ある会合で出会った老人が『栗谷川さん、私はあなたの藻岩山を走る姿を毎日眺めながら、雨が降って仕事を休んでいた自分が恥ずかしくなり、それ以来、あなたと同じにどんな悪天候の日でも仕事をしましたよ。おかげで今でも元気です。どうも有難う』――」クリさんはこの話をひとごとのように淡々と話してくれた。クリさんは髪こそ白くなったが、その五体には“鉄人”のたくましさがあふれ、超人レーサーの面影は少しも変わっていない。

   全校応援で盛り上がった中学スキー

 戦前の旧制中学のスキー大会は、いまの高校野球並みの人気があった。それは小、札幌の対抗戦というより、レースの商、ジャンプの中に対し、札商、北中、一中などの札幌勢の挑戦がファンの関心を呼んだからであろう。昭和九年、全道中等学校スキー大会は、札幌勢が躍進して、札商、一中の優勝争いとなり、その行方は最後のリレー競技に持ち越されることとなった。
 在札の各校はじめ、小遠くは旭川などからも全校応援の応援団が繰り込み、大応援旗を打ち振り、応援歌を歌って自校選手を応援するかと思えば、リレーなどはスキー部員を中心に、各校生徒たちが持ち場を分担して、「走れ!走れ!ワッショイ、ワッショイ」の、大応援を繰り広げるのが例だった。もちろん選手に手を貸したり、力を貸したり、引っ張ったりするのはルール違反だが、横を走って応援する伴走などは認められていた。
 さて、優勝を争うリレーは、安藤、杉本、中村、山本の一中が、二位に四分以上の差をつけてゴール、二位の札商、三位にあった名寄中の激しい二位争いとなった。札商はアンカー坪内、名中は闘将安味の対決となり、安味は走力をあげて坪内を追走、遂に最後の神社山の斜面で追いついた。だが、札商は二位になれば一点差で優勝、三位に落ちると同点ながらリレー一位の一中に総合優勝をもっていかれるから札商も必死、現役、OBを総動員して、坪内選手のシリを叩かんばかりの応援。前後左右を取り囲んで“ワッショイ、ワッショイ”と逃げ込みを図る。
 一方、名中のアンカー安味選手は名の知れた強豪、応援は母校が遠いためほとんどいない。ところが優勝のかかっている一中のOB、現役がこれまた「安味頼むぞ!坪内を抜いてくれ!」と、がんばれ、がんばれ、ワッショイ、ワッショイと、両選手を中にして、おみこしが走るような白熱した大レースが展開された。坪内、安味のおみこしレースは、大倉山の降りでも併列状態で滑り下りたが、わずかに走力の勝った安味選手がゴール前一〇〇で、力の尽きた坪内選手を抜いて二位に入り、札幌一中は名中安味選手の力走によって、総合初優勝を遂げることが出来た。
 この当時、中学スキー大会は現在の野球と同じように、当番校が決められ、距離競走の関門員や、ジャンプ競技の斜面員などを務めていたもの。当番校以外、当番校でも役員以外は、“スキー遠足”ということで、全校応援に出るのが通例で、各校による応援合戦は、札商の青、北海の緑、一中の赤、商のエンジ、中のオレンジと、各校がカラフルな応援旗を振って、白雪を鮮やかに彩る応援風景を見せ、これも大会名物の一つとなっていた。

   〇・二五差で勝った札幌オリンピック

 札幌オリンピックは、昭和四十七年二月三日に開幕、日本チーム期待の七〇級ジャンプは、日曜日の六日午前十時から開始されることに決定していた。これに先立った六日、参加全選手による公式練習が行われたが、日本の笠井幸生、金野昭次、青地清二、藤沢隆選手らはいずれも好調、八〇ラインをオーバーして、モルク(ノルウェー)ラスカ(チェコ)ナパルコフ(ソ連)ら、八〇ラインに達しない外国勢を寄せつけず、上位独占の勢いさえ見せていた。
 「バラさん、日本選手は調子がいいね。あすの本番ではどうだろう」と、札幌、東京で顔なじみになったNHKの北出清五郎アナが近づいてきた。「うーん、きょうの公式練習を見た限りでは、日本チームは一位から四位まで独占するかもしれん。だがジャンプは水ものだから、悪い連鎖反応を起こすと全員失敗するかもしれない。だけど、いまの日本チームは絶好調だよ」「そうー、あしたが楽しみだネ」と、話して北出アナと別れた。各社の記者も公式練習が終わったので全員引き揚げたが、僕だけは何だか気がかりなので一人残っていた。
 果たせるかな、予感通り、参加一六カ国のコーチ会議で大変な論争が持ち上がっていたのだ。この公式練習で飛距離が出なかったノルウェー、ソ連、チェコなど八カ国から「カンテ(踏切台)の角度を一度上げて九度にしろ」という意見が出され、これに反対する日本、アメリカ、フランスなどの間で激論が闘わされていた。モルク、ラスカ、ナパルコフら有力選手を持つノルウェー、ソ連、チェコのコーチらは「日本選手が一〇度のカンテで練習していて絶好調、この調子を崩すのはカンテの角度を大きく変えて、馴れを無くしてしまえ!」という作戦だった。
 この突然のクレームに驚いた日本の笠谷昌生コーチらは「この新しい宮の森シャンツェのプロフィルは、マイナス一〇度で設計されている。そのプロフィルを大きく変更することは、シャンツェそのものの設計を否定することにもなる。絶対に一〇度で大会を挙行すべきだ」と必死になって抗弁した。だが、東独、ソ連、チェコなどの東欧国とノルウェーの主張が強く、「それでは一歩譲って九度半ではどうか」と激論の末、第二案を提案してきた。裁定委員長で会議を主宰していたガスタフ・ラム(米)は、各コーチの討論を聞いたあと「賛否を取ろう」と、挙手を求めたところ、これがなんと八対八の同数となった。
 ラムはここで「私がどっちかに手を挙げれば事は解決する。だが、問題は重大なのでもっと論議をしろ」と会議をリードした。とにかく「一度上げるとカンテが八も上がる。一〇度で練習してきた日本選手にとっては、また練習をやり直さなければ感じはつかめない。それほどジャンプはデリケートな競技、一歩もひけない」と、笠谷コーチらは再度力説し、現状の一〇度にすべきだと説いた。笠谷コーチら地元日本代表らの意見も取り入れ、ノルウェー、ソ連らの顔を立てたラム委員長は「いつまでも論争を続けてもラチがあかない。九度四五分ではどうか」と、三度目の提案を行った結果、ノルウェー、ソ連などがしぶしぶ賛成して、九度四五分に決定、カンテの修正作業を始めた。
 笠谷コーチは顔をこわばらせながら「危うくノルウェー、ソ連の謀略に引っかかるとこだった。九度四五分なら二しか上がらないし、トライヤルを多くすればほとんど一〇度と同じになる」と、飛躍台係長の杉山安久さんに「安さん頼むよ」と言いながら、立ち合いのライフ・ソルバッケ(仏)、ベロゾニソフ(チェコ)コーチらと、ゲージを使って、九度四五分に修正した。
 「もしあの時日本チームの意見が頭から黙殺されていたら、八四ぐらい飛んでいたサブ(弟幸生選手)や金野らはブルって思い切ったジャンプが出来なかったろう。日の丸も夢に終わっていたかもしれない。日本に同調してくれたアメリカやフランスには今でも感謝の気持ちでいっぱいです」と、昨日のことのように笠谷昌生コーチが語ってくれた。
 こうした日本コーチ陣の陰の力が、翌七日、宮の森シャンツェに大きな“日の丸”の花を咲かせてくれた。笠谷、金野、青地のメダル独占、金、銀、銅の舞いを思い出す度に、六日夕刻までかかって激論した笠谷コーチらの努力と、カンテにへばりついてゲージを見つめていた笠谷コーチらの姿が、いまでも目ぶたの底に焼きついている。

 2 名選手群像
真鍋 晃雄

 北海道にスキー、スケートが伝わったのは、いずれも明治時代で、ともにいまの北大の教授がもたらしたもの。最初は遊びであったが、大正に入ってスポーツに発展し、昭和になって本格的な競技会が開かれた。さらにオリンピックに参加することによって技術的にも特段に進歩し、これまで多くの名選手が育った。さて、名選手群像だが、あまりにも数が多い。限られた紙面では、とてもすべてを書き尽くすことができない。どうしてもオリンピック、世界選手権に出場した選手が中心になってしまう。これらの人と同じ力量の選手を書きもらしてしまうことがあるが、なにとぞ、ご容赦願いたい。

  【スキー】ジャンプ

 育ちの三人 伴素彦、安達五郎、伊黒正次の三人に共通するのは小中学(現小潮陵高)出身ということである。伴と伊黒は北大に進み、また安達と伊黒は中の同級生だ。ジャンプの選手に小出身が多いのは地形に恵まれたといえようが、理論、実技とも研究は北大によってなされた。これをまとめたのが伴といってよいだろう。伴は中時代は円盤投げをやり、北大に入って野球部へ。そして、ほとんどの野球部員がやっていたようにスキーをやる。安定したジャンプで知られた伴は大正十五年(一九二六)の全日本で二位、翌年の全日本で優勝し、昭和三年の第二回冬季オリンピック(スイス・サンモリッツ)代表に選ばれた。二〇級の台から、いきなり六〇級となったオリンピックでは、さすがに着地をこなせず最下位に終わったが、外国選手の強いサッツと前傾を見て、これからのジャンプの方向づけを学んだ。この体験が、その後の選手の技術向上に役立ったことはいうまでもない。
 伴は全日本学生スキー連盟会長から全日本スキー連盟会長。五十五年の第一三回レークプラシッド冬季オリンピックの日本選手団長を務めた。
 安達は中に入って野球をやっていたが、先にジャンプをやっていた伊黒に誘われて、その道にはいった。ところが初めて飛んでみると伊黒よりもはるかにうまかった。そして昭和六年の全日本少年組で優勝、第三回のレークプラシッド冬季オリンピックには最年少で代表に選ばれた。本番では初練習で転倒、五日間も入院したにもかかわらず、六〇、六六と飛距離で三番目の記録を出し、八位となった。札鉄をやめ、現在は北九州市小倉区に住んでいるが、四八年後の五十五年、懐かしのレークプラシッドを訪れ、当時をしのんだ。
 安達が天才なら伊黒は努力の人である。練習に次ぐ練習を重ねて安達に追いつき、昭和七年の第四回ガルミッシュ・パルテンキルヘン冬季オリンピックでは、わずか一・二点差で入賞を逃し七位となった。伊黒は全日本スキー連盟専務理事として先輩の伴を補佐している。
 なお北大からは緒方直光、温光兄弟、神沢謙三、村本金弥、青山馨、年齢不足でオリンピック出場を断念した山田四郎、松山茂忠、亀ケ森隆らの名ジャンパーが育った。また札鉄の小原正巳は“吹雪の名手”の異名を残している。
 テレビ時代の先駆者・菊地定夫 大倉シャンツェで初めて一〇〇を超えたのは菊地である。昭和三十八年のSTV杯で一〇二を出した。テレビがようやくジャンプに目をつけ、各局が争って放映するようになったが、菊地のこの一発がジャンプをテレビ番組から欠かすことのできないものにした。
 菊地は小緑陵高(現小商高)―明大から雪印乳業に入社した。学生時代もさることながら、三〇歳近くになって無敵の強さを発揮したのだから恐れ入る。手を前に出すフォームから、現在の両手を体につけるスタイルを最初に完成させたともいえる。
 三十七年には一三戦して一二勝と信じられない活躍ぶりである。面白いことに、負けたのは自分の会社の「雪印杯」大会だった。三十三年の世界選手権から三十五年のスクォーバレー、三十九年のインスブルック両オリンピックと海外遠征の常連、ホルメンコーレン大会四位の輝かしい成績を残している。一〇年間も日本の第一線で活躍した息の長い選手だった。
 札幌オリンピックのメダリスト 笠谷幸生(余市高―明大―ニッカウ井スキー)、金野昭次(北海高―日大―拓銀)、青地清二(小緑陵高=小商―明大―雪印乳業)の七〇級メダリストのうち、金の笠谷は札幌と関係がない。しかし、後に札幌に住んだし、飛んだのが宮の森シャンツェなのだから――。
 笠谷の兄、昌生も日本を代表するジャンパーで、札幌オリンピックではコーチだった。八歳違いの兄が長距離ジャンパーで鳴らしていた時、小学生の幸生は兄にあこがれジャンプの道を進む。高校生で米国遠征に選ばれ、オリンピックはインスブルック、グルノーブル、札幌、インスブルックと四回も出場した。その札幌大会七〇級は四十七年二月六日に行われた。一本目、飛び出しからスムーズに重心を移し、いつまでも前傾を続ける。着地もきれいに決まって八四、飛型点も一九点と出た。そして二本目、助走距離が短くなったが、これも七九とこの回の最長不倒で金メダルが決まった。四四年前のオリンピック初参加以来、待ちに待った金メダル、しかも日本がメダルを独占したのだ。しかし九〇級は二本目を失敗し、惜しくも両種目制はならなかった。
 銀の金野も兄・興一のまねをしてジャンプを始めた。小さな体ながら“カミソリ・サッツ”といわれる鋭い踏み切りで飛距離を伸ばす。札幌オリンピックで、日本の四選手のトップを受け持つに十分な“切り込み隊長”だった。果たせるかな八二・五で一本目の三位。二本目も笠谷と同じ七九を記録した。笠谷のバランスに比べ、金野は瞬発力の強さといおうか。オリンピック三回、笠谷ほどの華やかさはなかったが、負けん気で勝負した選手である。
 銅の青地は先輩の菊地定夫と同じ道を進んだ。菊地が国内で連勝を誇り、第一人者となりながらオリンピックでは入賞すら逸していたのに比べ、青地は国内成績はそれほどでもないが、たった一度のチャンスをものにした。一本目は八三・五と金野を上回りながら二本目に失敗、七七・五で銅に終わったが、努力の積み重ねでつかんだメダルである。
 笠谷と金野は四年後のインスブルック・オリンピックにも出場したが、すでにピークを過ぎ、札幌の再現はならなかった。さらに四年後の五十五年、レークプラシッド・オリンピックでは七〇級で八木弘和(小北照高―拓銀)が銀メダル、秋元正博(明大―地崎工業)が四位と、再びジャンプ日本を再現してくれた。この二人は同年、札幌で行われたワールドカップ・ジャンプでも優勝しており、これからの活躍が期待される。
 札幌オリンピックで日本選手団の旗手を務めた益子峰行(札幌商―駒大―拓銀)は競技に出場できなかったが、ジャンプチームのマネージャー役を立派に果たし、メダルの陰の力となった。このほか一発屋の浅利正勝(夕張工―明大―雪印乳業)も忘れられない選手である。

  

距 離

 オリンピック参加 日本選手権が初めて開かれたのは大正十二年(一九二三)の小だが、まだ距離の技術は進歩していなかった。選手も早大、北大の学生が大半で、ここで躍進してきたのが高橋(北海中―早大)である。高橋は今でいう省エネ走法で、走る以外のムダをいっさい省いた。全日本の四、二五に勝ち、サンモリッツのオリンピック代表になる。この高橋に対抗したのが北大の岡村源太郎で、外国書で研究し、長いスキーを使い、各種のワックスを研究した。高橋が優勝した全日本の二五で、わずか三三秒差で二位となり、ともにオリンピック代表になったが、病気であっけなく世を去った。
 高橋、岡村の後を継いだのが天才ランナーといわれている栗谷川平五郎である。札幌一中を出て札鉄に入った昭和三年の全日本三〇。出発番号は一番だった。距離コースは現在のように整備されておらず、番号の早い選手は“ラッセル”といって、後の選手の道をつける役目のようなものだった。先行する選手もいないので、何人を抜いたかで調子を見るわけにもいかず、ひたすら自分の力に頼るしかない。こんな状況の中で栗谷川はなんと二位の宮下利三(北大)を一二分も引き離して優勝したのである。これは日本の距離界にとって、今でも語り継がれる大事件だった。
 栗谷川は脚力だけでなく腕の引く力をつけ、ストックワークを強化して独自の技術を研究した。明大に入ってからインカレ一八に三連勝、複合にも全日本とインカレのタイトルをにぎった。こうして昭和七年のレークプラシッド・オリンピックに出場した。一八に一二位とこれまでの日本選手では最高の成績。そして複合では前半の距離で三位。しかし後半のジャンプで一本目を転倒したため二〇位に終わった。競技に“もし”はないが、もし一本目が成功していたら上位入賞も可能ではなかったろうか。
 昭和八年はホルメンコーレン大会の五〇周年に当たったが、この時、栗谷川とともに招待されたのが宮村六郎(北海中―北大)である。最初はジャンプをやっていたが、距離で実力を発揮した。永く競技役員を続けたが、札幌で起きた昭和二十四年二月の「死の耐久事件」の責任をとってスキー界から身を引いた。
 戦前の最後のオリンピックは昭和十一年のガルミッシュ・パルテンキルヘン。この大会に出場したのが二人の社会人選手、旭鉄―札鉄の但野寛と小商―札鉄の関戸力(現姓矢崎)である。旭川出身の但野は夏もスキーで鍛えなければと、レース用スキーに油を塗り、砂利道を走って「おかしくなったのでは」といわれたほどだ。九年の全日本五〇三位でオリンピック出場、十二、十三年と全日本五〇に連勝している。オリンピックで但野は関戸らとともに滑降と回転にも出た。これは飛び入りだったので成績は振るわなかった。飛び入りといえば、但野は現地のパーティーでマイクを借り「国境の町」を歌ったが、実はこれがラジオ放送でドイツ国内に流れ、「日独親善に尽くした」と日本大使館からほめられる一幕があった。関戸は複合選手だったが、オリンピック後は距離一本にしぼり、十四年の全日本五〇で但野を破って優勝した。
 オリンピックに縁のない落合 戦前から戦後にかけて圧倒的強さを誇りながら、時代が悪くてオリンピックに縁がなかったのが落合力松(明大―雪印乳業)である。美唄出身で少年時代から抜群の力を持ち、北海商(小北照高)―明大でみがかれた。明大一年の昭和十六年は全日本一八で二位を四分四五秒も離して勝ち、関門員がチェックし直すほどのデビューだった。練習量もすごく、夏も冬のレースと同じ状態でやり抜き、体を完全に「レース用」に作り変えてしまった。
 戦前の十六、十七年のインカレ長距離、戦後の二十三年一八、二十四年の五〇、さらに宮様大会と、北海道内のタイトルを合わせると数え切れないほど勝った。現在ならオリンピックに三度は出ていたろうが、なにせ時代が悪く、オリンピックどころか国際大会にも遠征できず、三十五年のスクォーバレー・オリンピックのコーチになっただけだった。

  

複 合

 最初は得点かせぎ スキー競技が始まったころの中心はジャンプと距離で、複合は対校競技の得点かせぎだった。だから初期に活躍したのは“かけ持ち”選手だった。そうした中で複合選手といえるのは長田光雄(北大)が最初でなかろうか。そして続いたのが関口勇である。
 関口は北海商時代からスキー、ボクシング、水泳、野球の万能選手。南小駅に勤務しながらジャンプをやり、昭和五年の全日本を制し、レークプラシッドの代表となったが、航海中に病気になって帰国しなければならなかった。後に北大に勤務し、こんどは複合に専念、九年の全日本三位、十年に優勝してオリンピックへ。ここでは初めて採用されたアルペンにも出場した。そしてアルペンに転向し、十二年の全日本では回転優勝、滑降三位で新複合のチャンピオンになっている。戦後は宝市に移り、アマゴルフの全日本チャンピオンにもなるという“超万能選手”である。
 三羽ガラス 競技として脚光を浴びたのは昭和十年代に入り、久慈庫男(北海中―早大)坂田時人(樺太生まれ―札幌商―慶大)菊地富三(樺太大泊中―明大)の活躍によるものだった。久慈と坂田は中学時代からのライバル、進学して菊地を加え、これを「複合三羽ガラス」と呼んだ。全日本のタイトルをみても、十一年菊地、十二年久慈、十三年坂田、十四年、十五年久慈という具合である。ただ、菊地が早く世を去り、久慈、坂田が兵隊にとられたため、三人がそろって、しのぎを削ったのは十四年のインカレだけというのも面白い。この時は菊地、坂田、久慈の順だった。
 ジャンプか複合か 日本の複合選手はジャンプが強い。両種目をかけ持ちする者が少なくないが、両方でオリンピックに出たのが佐藤耕一(小中―明大―雪印乳業)である。もともとはジャンプの選手で、高校時代に全道高校、全道選手権少年のタイトルを取り、明大で複合を始め、二十七、二十九年のインカレ、三十年の全日本に優勝した。
 今なら簡単に海外遠征できるのだが、当時は大変だった。二十九年の世界選手権代表を決める前年の全日本のこと。複合のワクは二人だが、一人は藤沢良一(小水産―明大)に決まり、あと一人の争いで佐藤は〇・〇五点差で負けてしまった。ジャンプで五〇伸ばしておけば勝てたはずである。それでもがんばり、三十一年のコルチナダンペッツォ・オリンピックの代表になった。そのあとは複合では世界に通じないと悟り、ジャンプ一本にしぼり、全日本のタイトルを取ったあと、スクォーバレーではジャンプ代表となった。
 オリンピック三度 ノルディック種目の選手で札幌に生まれ、育って、勤務も札幌、しかも国際選手となると数が少ない。その中でオリンピックに三度も出場したのが谷口明見である。藻岩山の裏手、盤渓で育った谷口は小学生のころからスキーに親しみ、中学三年の石狩中学大会五に勝ち、初めてのジャンプも三位となって、このころから複合選手としての基礎ができていた。
 家庭の農業を手伝うために高校は札幌西の定時制を選び、片道一〇を毎日歩いて通学した。監督もコーチもいない谷口は独学で一歩一歩力をつけていった。そして札鉄に勤務しながら競技を続け、スクォーバレー、インスブルック、グルノーブルと三度のオリンピックを経験した。複合では三十七、四十年に全日本と国体、四十二年には全日本の複合と六〇級ジャンプに優勝している。谷口のあとは札商高―法大の大久保勝利がグルノーブル、さらに札幌の荒谷一夫(拓銀)、レークプラシッドの久保田三知男(ニヘイハウス)と続いた。

  

変わり種

 雪の曲芸師 選手の中には変わり種がいるものだが、若本松太郎の右に出る者はいないだろう。昭和十三、十四年の全日本回転に優勝、十八年にはジャンプのタイトルまでさらってしまった。今でも若本のジャンプで語り伝えられているのは「サッツをして観客のいる側のスタンドの方へ飛び、軌道を修正して着地した」と。なんのことはない、身長一五〇、体重五〇の小柄だったため、風に流されて、あわててバランスを保ったものだ。
 小さい時から身につけたスキー技術は抜群で、アルペンでは他の選手が五〇秒かかるところを四五秒ぐらいで滑った。しかし、本人はジャンプが好きでたまらなかった。プレジャンプを利用して宙返りするアクロバットスキーを初めてやったのも若本だった。

  

【スケート】スピード

 世界スピード五〇〇に優勝 戦後、日本のスポーツ界が国際復帰して国中を沸かせたのは水泳の古橋広之進、橋爪四郎による世界記録の続出だった。続いて二十六年二月、ダボス(スイス)で行われた男子世界スピードスケート選手権で内藤晋(北海道新聞)が五〇〇に四三秒〇の日本新記録で優勝。水と氷の快挙であった。
 内藤はスケート界草分けの一人、芳雄(故人)の二男で、兄の洋(アイスホッケー、戦病死)や姉とともに、小学生になる前から特製のスケートで遊んでいた。一三歳になった十一年一月の全道選手権では高等小学校二年で、五千、一万に勝ち総合優勝してしまった。中学はスケートの強い苫小牧工業を選び、十三年の日本選手権で活躍し、十五年に予定された札幌オリンピック候補選手一四人のうち、中学生でただ一人選ばれた。
 苫工を卒業して満州で就職、ここで名器マティーセンを手に入れたが、大学卒の初任給が五五円のころ一〇〇円もするものだった。十七年春、日大に進学したが、やがて戦争のためスケートもできず学徒動員へ。復員後は次々に自己記録を向上させたが、五〇〇四三秒五の日本記録はなかなか破れなかった。そうするうちに、二十七年のオスロ(ノルウェー)オリンピック参加が決まり、日本は小手調べとして二十六年の世界選手権に内藤のほか、苫工―日大の後輩、佐藤恒夫、菅原和彦の三選手を派遣、内藤が五〇〇に見事優勝した。
 これでオリンピックの優勝も確実と思われたが、内藤は帰国後に病気となりチャンスを逃した。実は出発前から体調の変化に気がついていたが、主治医に目をつぶってもらったといわれている。内藤は選手としてのオリンピックは逃したが、スクォーバレーでは選手団のトレーナーを務めた。
 内藤の成績が飛び抜けて偉大だったために他の選手がかすんでしまうが、札商―明大の新保鋭は三十八年の日本選手権で総合優勝し軽井沢の世界選手権に出場した。そのあとが、同じ札商―明大の佐藤尚二で四十七年のユニバーシアードで入賞している。
 女子では二十三、二十五年の全日本チャンピオン佐藤千栄子で、札幌勢としてはたった一人の女子選手として札幌市立高女時代から苫小牧の強豪選手に対抗し、長野富子、前田悦子らと激しい闘いを繰り返してきた。

  

フィギュア

 二人の日本チャンピオン 明治の初期に伝わったスケートが盛んになったのは大正の中期からで、札幌ではフィギュアが盛んだった。北海中から札商に転校した久保信は大正十二年の全国フィギュア選手権に出場しているが、技をみがいたのは明大に入ってからである。当時の明大はスケート部がなく、山岳班に属して部員は八人しかいないので、スピード、ホッケーにも狩り出された。
 大正十四年から始まった日本学生選手権でも明大は先輩の審判がいないため、NO1の実力を持ちながら二位に終わった。しかし、昭和五年の第一回全日本選手権では規定で四位ながら自由で逆転し、初のチャンピオンに輝いた。コーチもおらず、外国から技術書を取り寄せての独学だが「欧米のレベルにあるのは自由演技での久保だけ」と当時の新聞に書かれた。久保はレークプラシッド・オリンピックの候補になっていたが辞退し、札幌に帰って後進の指導に専念した。
 もう一人のチャンピオンは有坂隆祐である。東京生まれで、五歳の時、札幌に移ったが、小学校の四年からスケートをはき、フィギュアを手がけたのは六年から。有坂は札商から北海中に転校し明大に入ったが、予科二年の昭和十一年に全日本学生六位、全日本ジュニア優勝。しかし、翌年右足を骨折し再起不能とまでいわれた。だが、すぐにカムバック、卒業の十五年には全日本選手権を制し、第一回の久保が勝ったあと関西に奪われていたタイトルを一〇年ぶりに取り戻した。
 札幌に帰って十六年の全日本も制したが、戦前の競技はこれが最後、戦後は二十二、二十三、二十六年と全日本五度の優勝で、同年、ミラノの世界選手権に出場したが、三十三歳の最年長、おまけに欧米とは技術の差が大きく出て振るわなかった。その後はインストラクターに転向し、多くのオリンピック選手を育て、四十二年にアマ復帰して現在に至っている。
 団体の成績では大正十五年の全日本学生で北大が優勝、戦後は北海高が四十四、四十五、五十年に全国高校で優勝している。

  

アイスホッケー

 大正の初め、北大のフィギュア選手が始めたアイスホッケーは札幌師範や中学校で広まった。札師はなかなか強く、後に慶大を出てガルミッシュ・パルテンキルヘン・オリンピックに出場した亀井信吉と横路節雄(故人)のDFコンビが有名。札一中からは十二〜十五年の立大全盛期に活躍した小柳誠司がいる。

 3 わが体験

   私のスキーと人生
落合 力松

 私は、昭和二十一年に、雪印乳業に就職してから今日まで、三五年の歳月を札幌の発展とともに歩んで来ました。
 私は、スキーの距離競技の選手として、二〇年間の選手生活をあらためて振り返ってみたいと思います。
 小学校時代は、スキーの盛んな美唄市にあった三菱美唄炭鉱の街、我路で育ち、当時三菱美唄のスキー選手が昭和十一年、ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで行われた第四回冬季オリンピック大会の候補選手に選ばれて、炭鉱を挙げての応援をするという熱狂振りで、非常にスキーが盛んであり、そのような環境の下で、私も大きな刺激を受け、選手が練習で走っているのを見て後からついて走ったのが、そもそもスキー選手を目指した始まりであります。
 選手生活二〇年の長い歳月を、冬はスキー、夏はマラソン駅伝と数えきれないほどの大会に出場したなかで、会心のレースはなんといっても昭和十六年、札幌で行われた全日本選手権大会の長距離であろうと思います。全日本学生選手権大会長距離で二連勝、初めての全日本選手権大会へ挑戦(それ以前は少年組)して、二位を四分四五秒の大差をつけて優勝しました。
 私の優勝タイムが一時間二四分二三秒、二位一時間二九分八秒で以上のようなタイムの勝ち方はあまり例がないため、レース後、落合はコースを間違えたのではないかと全関門を再点検するということがあり、私の記録発表が遅れたことがありました。優勝するときは、自分でも驚くほど、走れば走るほど楽になり、スピードがつき、二、三の上りは、一気に走り通しても疲れがでなかったので実に会心のレースでした。
 昭和二十三年、戦後初めての全日本選手権大会兼国体スキー大会が、長野県野沢温泉で開催され、スキー王国・北海道からもたくさんの選手が参加しました。戦争で中断されていた全国大会が五年ぶりに開かれるというので、選手も気合いがかかり張り切った大会でした。
 私は、戦後二十一年から宮様スキー大会をはじめ、北海道選手権大会、長距離耐久、各種大会連戦連勝で、野沢大会に乗り込みました。長距離(一八)は予定通り優勝し、翌日の耐久(四〇)も二〇コース二周回りで行われ、一周目で二位グループを三分以上離し、二十数人を抜き、トップでゴール、念願の二種目制と喜んで家に電報を打ち、最終日のリレーを考えながら風呂にはいっていました。
 ところが、最後にスタートした国鉄北海道の井上健二選手が、良いコース条件のもとに、私のタイムを聞きながら走り、私のタイムよりわずかに上回ってゴールしたことを知らされ、負けたショックで急に疲れが出て、食欲もなくなり熱まで出たことがありました。
 翌年、札幌での全日本選手権大会では、耐久では優勝、長距離では、明大時代の一年後輩の青森県の山本選手に負けて二位となり、長距離・耐久の二種目制することの難しさをしみじみと感じたものです。

  クロスカントリー競技とは

 スキーの距離競技を現在では、クロスカントリーと呼んでいます。クロスカントリーとは、決められたコースをスキーを履いて走るので、スキーを履いたマラソンと言われています。
 男子が一五、三〇、五〇、リレー(四×一〇)、女子は五、一〇、リレー(四×五)の七種目があり、スタートは三〇秒から一分間隔で行れます。これは、山や谷を横切って長いコースを造るため、数十人を同時にスタートさせることが、整備上不可能なため、このようなスタート方法がとられています。
 時差スタートのため、狭いコースに選手が縦につながるので、追い抜きをする場合のルールがあり、つまり後から追いついた選手は、前の選手にコースをあけてくれと声をかけることが出来、しかも、声をかけられた選手がコースをあけない時は失格になるというルールになっています。
 コースの標高差が一〇〇から二五〇もあるため、雪質が場所によって違うのと、その日の温度によって雪質が違うので、雪質に合わせてワックスを塗るのが勝負のポイントにもなっています。
 以上が、クロスカントリー競技の概要です。
 クロスカントリーや、陸上競技の長距離選手も同じですが、選手としていつでも一五、三〇、五〇を走れるようになるには、年間を通して毎日のトレーニングは、二五から三〇ぐらいは走らなければならないし、また走ることが絶対必要です。
 長距離選手が走っている体の状態は、普通の人が歩いているのと同じ状態になるくらいまでに走れる力をつけることが必要条件です。従って、一日に三〇を一年間走ると一万八〇〇になります。現在長距離ランナーとして、国際級の選手は年間の走行距離は一万以上走ることが、基本条件であろうと思います。一日三〇以上走ることを毎日続けるには、日常生活がトレーニングにつながらなければ到底続けられるものではないし、またトレーニングが日常生活につながってこそ、本当の実力がつくものであろうと思います。
 私の選手時代は、夏季間家から苗穂町雪印乳業まで六・五を朝一時間ほどで歩いて通勤し、帰りはトレーニングとして、雁来橋往復を走り、豊平川堤防を南九条まで南進し、南九条通りを西に双子山を通り幌見峠まで、約二〇を走るのを日課として毎日続けていました。また冬季間は、雪が降りスキーが可能になる十二月中旬から三月中旬ぐらいまで、往復一三をスキーをはいて通勤するのが、トレーニングの一部でした。
 通勤に市内の道路を毎日スキーで歩いていますと、道路の砂利や石で一カ月ぐらいでスキーが減って、履けなくなったこともありました。また、スキーを履いて毎日歩いていますと、スキーもストックも体の一部と同じようになって、歩きながらのうちに体重がスキーに乗り、ストックも腕の一部と同じようにバランスを取りながら体を前に送る働きが自然に生まれるようになり、スキーのトレーニングには非常に効果的でした。
 当時の札幌の街は、道路の信号もなく、道庁前から苗穂駅前までの電車線などは、大雪が降り道路の雪が踏み固まると、雪解けまで電車が不通になることがしばしばあったと記憶に残っています。また車が少なく、街の中をスキーを履いて歩けた時代でもありました。
 戦後、昭和二十一年から二十六年ぐらいまでの現役選手として最高潮の時は、通勤に乗り物には乗ったことがほとんどなく、雨の日、風の日、吹雪の日でも休むことなく毎日のトレーニングを続けたものでした。
 選手は、大会のスケジュールに合わせて年間のトレーニングを実施しているのですが、一年間のトレーニングの成果が一五競技であれば五〇分ぐらいの戦いで日本一、あるいは世界一が決まるのですから、失敗は絶対許されないのが大会です。
 従って、体力と精神力の戦いになるわけで、そのシーズンのビッグ・ゲーム―例えば、全日本スキー選手権大会や国体スキー大会などに臨む時の精神面の緊張は大変なものです。
 私が経験した一例ですが、昭和二十六年、新潟県高田市での国体スキー大会が大会前日の夕方から雨が降り出し、翌朝までに雪が無くなって、大会が中止になったことがありました。
 その当時私は現役選手として、非常に張り切った選手生活をしていましたから、大会地には一週間前には入り、現地のコースや雪質に合わせた走法で大会当日に調子を合わせることが作戦上何よりも大事なことと、毎日緊張したトレーニングを積んでいました。
 大会の七日前、三日前、前日と、日程に合わせたトレーニングはもちろんのことですが、食べ物、飲み物、睡眠時間などを節制し、大会当日の調子を最高潮にするための精神面の緊張などもあります。ところが大会当日になって雪がなくなり、大会が中止になった時は、精神的にも、肉体的にも疲れが出て、一五競技の大会に出場した時と同じだけの疲れが出たことを経験しました。
 クロスカントリー競技で一番長い距離は五〇競技です。陸上競技のマラソンは、四二一九五ですから、それよりも長い距離で、しかも、標高差が二五〇ぐらいもある山野の変化に富んだコースが多いところをスキーで走るのですから、体力を消耗する代表的競技であろうといわれております。
 私も現役時代には、いつも五〇競技に挑戦しておりました。
 大会当日は、コース係や、給食係がいて、コースの整備や、途中で給食を出してくれたりして運営に当たってくれますので、苦労なく五〇を走ることが出来ますが、日常の練習は、自分一人で五〇の長いコースを走るので大変な苦労があるものです。
 私が五〇競技に挑戦するためによく走った練習コースは、円山陸上競技場から道路伝いに荒井山を通り、盤渓峠、盤渓小学校から夏路を滝の沢へ下り、円山陸上競技場に戻るコースが約七で、タイムは三〇分ぐらいです。
 今は、自動車が走り立派な道路になっていますが、当時は、馬(そり)が通るぐらいで、人影もほとんどなく、スキーの練習コースとしては絶好でした。このコースを七回回りますと、約五〇で、時間は三時間三〇分ぐらい走ることになります。
 当時は、耐久レースといわれており、この耐久レースを走るには、時間が三時間三〇分前後もかかるので、途中食事をとりながら走らなければ完走出来るものではなく、走りながら途中で食事をするのが勝負のポイントにもなる競技です。
 私も、この練習には握り飯を持参して走り、途中で凍った握り飯を食べながら、四時間近くもの長い時間を走ったことは、忘れられない思い出の一つです。
 走りながら途中で食事が出来るようになるのも練習で鍛えなければなりません。最初は腹を減らして失敗することがよくあるのですが、途中空腹を感じてから食べても、食べた効果が現れるには、二〇分から三〇分はかかるので、大会であれば失敗ということになります。
 大会に臨むパターンは、選手自身が体調に合わせたパターンを作らなければならないということです。長い間のトレーニングと数多くの大会に出場しているうちに優勝するリズムが生まれるものです。
 例えば、一五競技であれば、スタートしてから一ぐらいまではどのようにして走るとか、三ぐらいまでに自分のペースにのせて、五ぐらいから優勝へのリズムにのせるといった具合に、調子の波にのりますと、走れば走るほど楽になり、またスピードが出るものです。
 選手として一番大事なことは、大きな大会になればなるほど自分の持っている力を全部出しきることです。従って、全日本選手権大会、国体スキー大会というような国内のビッグゲームには、自己の持つ最高記録以上を必ず出すことが必要です。オリンピックや国際競技大会に優勝するような選手は、必ずといってよいほど、自己の持つ記録を更新しています。大記録は、大試合でなければなかなか出るものではないと思います。
 私の現役選手時代は、海外遠征のチャンスがまことに少なく、四年に一度のオリンピック大会だけでした。
 しかし、その四年に一度のオリンピックも第二次世界大戦のために中断され、そのうえ戦後はまた、日本の参加不可能ということもあり、私自身、選手としてオリンピックに参加するチャンスは一度もなかったのです。
 けれど、昭和三十五年、アメリカのスクォーバレーで行われた第八回冬季オリンピック大会のクロスカントリーのコーチとして参加することが出来ました。会場は、標高二〇〇〇に近い高地であり、住民もほとんどいない別荘地帯でしたので、機械力をフルに活用したオリンピックであったという印象が強く残っております。
 一例を挙げると、クロスカントリーのコースを整備するのも数人の係が、スノーマスターなどの機械で朝の暗いうちに全コースを回り、競技開始までに整備を完了してしまい、また駐車場を作る場合も、野原に夜通し水をまいて凍らせて、一夜のうちに一万台ぐらい収容出来る駐車場が出来上がるといった具合で、まことに驚きの連続でした。
 クロスカントリーの日本代表選手には、松橋、佐藤和、栗田の三選手が出場しましたが、外国選手との力の差は、仕方のないことでした。
 オリンピックや国際大会には、今まで述べたように実力以上の記録が出るようなリズムにのることが絶対に必要であり、そのリズムにのらなければ世界のレベルに挑戦することは非常に難しいと思います。
 オリンピック参加以来、クロスカントリーに一〇位以内の入賞者が出ていませんが、クロスカントリーを強くすることは、スキー界の一大発展につながると思います。クロスカントリーこそ、ジャンプ、アルペンすべてのスキー競技の基本であるからです。
 昭和十年、中学に入ってから、スキー選手として本格的に走り、二年生でインターミドルに入賞し、三年、四年、五年と三年間連続優勝が私の全日本第一線のスキー選手としての出発でありまして、それから二三年間のスキー選手生活が続き、昭和三十三年札幌での国体スキー大会壮年組優勝が選手生活の終止符となりました。
 二三年間の年月、約二〇万を走り続けた距離は、地球を五周走ったことになります。札幌の思い出多い野山や道路を二〇万走ることで、私に体力をつくってくれた札幌に心からの感謝をするとともに、これからも健康都市札幌の一市民として、体力づくりに歩き続けようと思ております。

   スケートとともに歩んだ半生
内藤 晋

  父の時代

 私の父は明治三十年、札幌創成尋常小学校(後の中央創成小学校)に入った当時から、冬になると竹草履(ぞうり)をはいて雪道を滑って遊んだという。雑貨屋にはワラ草履のものしかなかったらしく、父のは下男が麻裏草履に根曲がり竹をとじつけた特製のものだった。これを足袋(たび)の上からヒモでぐるぐる縛りつけたものだから、すぐ指先が凍えて霜焼けになり、夜、寝床に入って暖まるとかゆくて困ったそうだ。
 これがスケートの前身で、次は足駄(あしだ)の歯をとったような下駄?にかすがい状の平らな鉄を打ちつけたベッタになる。これをマスターすると三分(約一)、五分、七分と次第に鉄の部分が高くなったものを履いた。これで滑られるようになるといよいよ下駄スケットということになるのだが、これはそうたやすく買ってもらえる代物ではなかった。ねだりにねだって、ようやく父親と鍛冶屋に行って作ってもらい、それを下駄屋に持って行って打ちつけてもらったというから、二五銭くらいだった下駄スケットを履く身分になるのも容易でなかったようだ。
 しかし尋常小学四年を終えて高等小学校生になると、もう靴スケットでなければ満足出来なくなる。そのころ、そんなスケットを売っている店はなく、鍛冶屋に特注して皮バンド二本で靴にしめつけるものを作ってもらっていた。これが二円五〇銭したといわれ、一足のスケートを手に入れるのもなかなか大変な時代であった。
 高等科を修了し、中学に入った年(明治三十七年)、異常とも思える父のスケート熱を知ったサンフランシスコの叔父が、あこがれのキカイスケットを送ってくれた。これは靴のかかとと、指の付け根に当たる部分を、ネジを調節して取り付けるようになっているもの。そのころ札幌でこのようなスケートを持っていたのは、同じ叔父から先にプレゼントしてもらった従兄と、家の向かいの宣教師館に住んでいた米人ローランドの息子のポールの二人だけで、父は三人目の持ち主になった。“そのときのうれしさは『ほんとうに天にも登る気持ち』で、家の中を跳んで回った”と書き残しているが、このスケットを持って滑りに行った父の得意顔が目に浮かんでくる。
 もっとも札幌農学校開校当時、米人教師ブルックスが持って来たものや、新渡戸さんが米国留学から持ち帰ったものなどは、どうなったか行方がわからなかったようだ。
 当時、北一条東二丁目の南側あたりに大きな池があり、冬はそこにスケート場が出来、近くの小間物屋から二銭のキップを買ってきて滑っていたという。のちに北大の予科(東北帝大農科大)に入り、ちゅうちょすることなくスケーチング部員になった。農学部を卒業して間もなく、札幌スケート協会の仕事をするようになった。

  私の少年時代

 明治、大正、昭和と時代は移り変わったが、父のスケート熱は一向に衰えず、子供たちが幼稚園に行くか、行かないうちから次々とリンクに連れて行った。私も幼稚園のときから、兄や姉と一緒に中島公園に通っているうちに、自然にスケートを覚え滑られるようになった。小学生のころは、毎年シーズンが来るのが待ち遠しく、夏が過ぎるとエッジケースをつけたままスケートを履き、茶の間のリノリウムの上で腰、ひざを曲げたフォームから、足を交互に伸ばしてキックする練習を、五分、一〇分とやっていた。
 いよいよ明日はリンク開きで初滑りが出来るという夜は、うれしさに胸がときめいてなかなか寝つかれなかったこともあった。冬休みになると、毎日のように母に作ってもらった弁当を持ってリンクへ通い、鬼ゴッコやアイスホッケー遊びなどで一日中走り回っていた。二月十一日のカーニバルは、兄弟姉妹はもとより、母も一緒に仮装して、一家総出で楽しんだ思い出が残っている。
 一三歳のとき(昭和十年)、第四回冬季オリンピック(昭和十一年、ガルミッシュ・パルテンキルヘン)のスピード日本代表が苫小牧で合宿練習を行ったが、そのとき札幌の中島リンクで、真っ白いユニホーム姿の代表戦手団が、目の覚めるような見事なフォームで滑ったことを、今でもはっきり記憶している。その折、ほんのわずかの時間だったが、キャプテンの河村泰男選手や、短距離の石原省三選手、長距離の金正淵選手らにスケーティングの基本を教えてもらった。全くの自己流でいい気になって滑っていただけに、手とり足をとってフォームを直してもらって、初めて本当のスピードのスケーティングがどういうものか、少しわかったような気がした。
 このときから、大きくなったらオリンピック選手になろうと心に決め、スケートに本格的に取り組むようになった。翌十一年、高等小学校二年で全道選手権大会に出場、四種目総合のタイトルを握ったのは、この影響が多分にあったのではないかと思っている。

  苫小牧工業時代

 苫小牧工業で先輩、同僚らと一緒に近くの競馬場や海岸などでトレーニングに汗を流したことも、今では懐かしい思い出だ。スケートが強くなるには―と初めて親元を離れての下宿生活であったが、日がたつにつれて家が恋しくなり、六月の札幌神社の祭典には、なんとかして家に帰りたいと思っていた。これを知った父から、汽車賃の代わりに札幌―苫小牧間の道路を赤鉛筆で印した五万分の一の地図数枚を送って来た。
 “よーし、それならば”と決心して土曜日の午後、自転車に水筒を縛りつけ、つなぎ合わせた地図を持って札幌に向かって走り出した。苫小牧の近くは道路も良く、平たんで走りやすかったが、植苗、美々を過ぎる辺りからは、大きな起伏とカーブが連なり、そのうえ道幅いっぱいに、砕石が厚く敷きつめられた砂利道が多くなった。
 一四歳になったばかりで、五尺(一五一・五)を少し超えたくらいの身長しかなかったので、乗っていた自転車は二四(約六〇)、しかもトレーニング用というので、競輪選手が使っているのと同じ踏みきり式にしてあった。もちろん、今はやりの何段切り替えなどという、シャレたものなどはなく、ブレーキもついていない。
 上り坂は懸命にがんばり、どうしてもだめなら降りて歩くが、下りはバカらしくて自転車を降りてなどいられない。大きな下り道では、いくら力を入れてペダルの回転を抑えようとしても、そうは問屋がおろさない。ぐんぐんスピードがつき回転が速くなってくるが、いつ不測の事態が起きるかわからないので、ペダルから足を離すわけにはいかない。不安、危険を感じながら必死で足をふんばっていたので、上りよりも下り坂で疲れ果ててしまった。
 それだけに夕闇迫るころ無事家に到着したときの喜びは、簡単には言い表せない程大きなものであった。
 私にとって、この一八里(七〇・六九)の自転車一人旅は、その後の選手生活に大きな自信を与えてくれた貴重な体験であった。
 昭和十三年の一月、札幌中島公園オリンピックリンク(地上に散水して特設したもの)で行われていた第九回全日本選手権に出場した。この大会は、昭和十五年に札幌で開催することになっていた第五回冬季オリンピックのリハーサルを兼ねていた。二年前のガルミッシュ・オリンピック帰りの金正淵、張祐植(明大)南洞邦夫(早大)など、全盛を誇っていた明大、早大勢や満州、朝鮮の強豪に交じって苫工二年の私も出場した。
 四〇人中五〇〇で八位、一五〇〇は金、張の両オリンピック代表などを破って六位となり、四種目総合では辛うじて一二位となった。結局一五〇〇のがんばりと若さを買われ(?)、大学、一般勢に伍して男子では中学生からただ一人オリンピック候補選手に選ばれた。地元札幌で、あこがれのオリンピックに出られるのでは―と胸を躍らせていたものだが、戦争のため開催を返上、遂に中止になった。誠に残念至極というほかはない。

  堅い氷の満州へ

 三シーズン、全国中等学校大会に出たが、新京、奉天など満州(中国東北地方)勢の強さが印象に残った。“スケートを続けて行くなら満州の方がよい”と両親に訴えて満州炭鉱(新京本社)に就職した。しかしスケート部などはなく、給料を少しずつ蓄えてトレーニング用の自転車を買い、会社が退けると、真っ赤な夕日を背に、大同広場や大同大街、興仁大路などを走った。
 新京の冬は札幌より厳しい。児玉公園リンクの氷は堅い上に、煤煙や砂ぼこりがいっぱいで、転んだりするとユニホームはどす黒く汚れた。それだけ滑りが悪く、せっかくボーナスをはたいて手に入れたオスカー・マティーセンも、二、三千も滑るとエッジがなくなってしまうほどだった。従って札幌や本州で滑る時よりヒザを深く曲げ、エッジで氷をしっかり抑えなければ、思うようなスピードが出ない。というわけで、スケーティングの基本の大切さが分かり、それを忠実に守ることが自然に身についてくる。同時に滑りの悪い氷で少しでもよいタイムを出すためには、ひと足ごとのキックをおろそかに出来ない。そのことによって脚力がつき、地力が備わってくるという相乗効果が出てくる。
 日本スピードスケート界の大先輩、木谷徳雄、大沢義一、河村泰男、石原省三をはじめ滝三七子、簗瀬暢子、木谷妙子、江島八重子、汾陽泰子ら幾多の名選手を輩出したのは、このような環境によるものであろう。
 私にとって新京の三年間は、その後の選手生活を支えてくれた掛け替えのない歳月であった。

  戦 後

 二十年九月、私は復員して家へ帰って来た。十八年の十二月一日、学徒動員で樺太の気屯に入隊した当時は、体力はもとより寒さにも自信があったが、二十年一月から約半年にわたる中千島・得撫島での耐乏生活ですっかり体力が衰えてしまった。さらに私より一カ月早く学徒入隊した兄(洋)が、ルソン島の戦闘で倒れ、帰らぬ人となったため、私が一家の支柱となった。
 荒廃した戦後の生活のなかで、スポーツは何より心のよりどころであった。二度と履く機会はないだろうと思っていたのに、再びスケートで銀盤を滑られる日が訪れた。食糧難でイモやカボチャの代用食を食べながら、またスケートとの付き合いが始まった。しかし体力はなかなか回復せず、職業柄(二十三年、北海道新聞社に入社、運動部記者)練習も思うにまかせなかった。従って、短時間で効率のよい練習を自分で考え、実行した。そんなわけで、戦前の自分の記録に戻るのに三〜四年もかかった。だが別にあせりなどはなく、スケートをやれるということがうれしく、生活に張りを持つことが出来た。
 こうしてスケートを楽しんでいるうちに、日本スケート連盟が国際スケート連盟(ISU)に復帰を許され、二十六年の世界選手権(一九五一年二月十、十一日、スイス・ダボス)に出場するチャンスに恵まれた。今では北回りで二〇時間足らずの旅だが、まだプロペラ機の時代で、北回り航路もなかった。乗り継ぎ機の関係などで、イスタンブール、ローマで泊まったりして、羽田を発って六日目の一月二十九日夜、スケートのメッカといわれるダボスに到着した。
 翌三十日から練習を始め、二月三、四日の国際スケート大会に出場した。一〇日間も氷に乗っていなかった上に、旅の疲れ、時差による影響などで、体調はまだ不十分で、本来のスケーティングは出来なかったが、大理石を敷きつめたような氷のお陰で、五〇〇に四三秒〇、一五〇〇は二分二四秒五(日本記録はそれぞれ四三秒五、二分二四秒〇)が出せた。本番まで一週間の調整期間があるので、このレースでのスタートの出遅れと、交差路のもたつきを差し引くと、五〇〇であと一秒ちょっとは縮められると思っていた。
 選手権前日から暖かくなり、夜になっても気温が下がらず、とうとう暖気のなかで開幕した。一週間前のピカピカ氷はすっかり変身、氷面はくもりガラスのように光沢がなく、滑りが悪かった。スタートダッシュからスムーズな出足で、フィニッシュまで力一杯のレースが出来た。一週間前と同じ四三秒〇のタイムに悔いは残るが、コンディションを考えればあきらめざるを得なかった。
 苫工三年生のときに肋膜炎を患って以来、短距離しかやらなくなった私が、四種目総合のタイトルを争う世界選手権に出場したのは、五二年オスロ・オリンピックの小手調べという意味があったからだ。
 戦後まだ日が浅く、明るいニュースが乏しかった。そのうえスポーツ界でも国際舞台に登場する機会が少なく、私たちのダボス行きが戦後初の欧州遠征だった。それだけに、一五年ぶりに出場した日本の選手が五〇〇に一位になった、ということで驚かれたのだが、自分では満足していなかった。しかしオスロ・オリンピックの“切符”を手に入れたことはうれしかった。
 オリンピックは選手権とは違って各種目別のレースであり、当時はまだスプリント選手権というものが行われていなかったから、短距離選手が自分の本当の力を試すのは、四年に一度のオリンピックしかなかったのである。
 幻の札幌大会以来、久しぶりに巡ってきたこのチャンスを、自分で満足出来るものにしたいという意欲に燃えた。職業柄、毎月数十時間の時間外勤務をしたあと、真っ暗になった北大のグラウンドなどでトレーニングに励んだ。
 こんな日が続いた七月の下旬、ついに過労から病に倒れ、オリンピック出場は断念せざるを得なかった。妻と三人の子供、それに両親と六人の家族を支える二九歳のサラリーマンにとってオリンピックは夢でしかなかった。

 4 歩くスキーとともに
小玉 昌俊

 感動と栄光のうちに幕を閉じた札幌オリンピックから一年を迎えようとしていた昭和四十八年の年頭に、当時の高橋喜敬教育長が「札幌オリンピックを記念し、何か後世に残る市民的行事を」と提案したのを受け、多くのアイディアの中から、冬季における市民の健康増進にだれでも、気軽に取り組めるものとして「歩くスキー」が浮かび上がった。
 同年の第一回札幌オリンピック開催記念行事の一環として、高松宮殿下、三笠宮寛仁親王殿下のご来臨を得、札幌バイアスロン連盟の協力により二月十一日、西岡のバイアスロンコースで一、二および三の三つのコースを歩いたのが札幌市での計画的歩くスキーの嚆矢(こうし)である。当時の記録によれば、全参加者数は二五〇人となっているが、大半はバイアスロン関係者、体育指導委員、支援の自衛隊員らで、一般参加者は約一〇〇人。その装備は、山岳用スキーやカンダハー金具が主力であったという。
 このほか特に目をひいたのは、独自に考案した締め具をつけ水上豊後教諭に引率された市立三里小学校(村雲範英校長)三〇人の可愛らしい児童であった。アルペン一辺倒の時勢に長靴ででも利用できる締め具を考案し、歩くスキーを体育授業に取り入れていた同校関係者の慧眼に敬意を表したい。
 歩くスキーなどという言葉も知らず同年四月一日に体育課長を命ぜられ、旬日を経ずしてこの記念行事の反省会があり、歩くスキーに強く心を引きつけられた。しかし、「歩くスキー」という呼び方に少なからず抵抗を覚えたが、近年、リフトのないスキー場は利用されない、上手も下手もスキーと靴がガッチリ固定され、身動きのとれない装備であればこれも無理からぬこと、しかしスキーとは上から下へ滑り降りるだけのものなりという定義が定着してくる。登ることも降ることも平地を滑ることも全てスキーであることが市民から忘れられようとしていることを思うとき、そして、この呼び名に市民が親近感を覚え、やる気を(そそ)るならあえて呼び名にこだわることはないと思い、私も率先して「歩くスキー」と表現して(はばか)らないことにした。
 四十八年秋、当時北海道スキー工業会の副理事長であった芳賀孝郎氏と事務局長の貝氏が来訪され、「昨年製造した歩くスキーの在庫がある、市民の健康増進に是非歩くスキーを市が積極的に推進してほしい。工業会としても全面的に協力する」という話があった。
 そこで「私としては、販売促進のために歩くスキーの普及は考えない。しかし、これは非常に良い企画だと思っている。ついては、最近諸物価が値上がりしているが、この歩くスキー用具は昨年価格のままに据え置いてほしい。これの普及発展は、私どもの努力とあなたたちの協力が原動力となる」とお願いしたところ、希望に副うようにしたいとの回答を得た。この時、将来展望の光がうっすらと見えたような感がした。
 市民の現状はどうかというと中高年層、家庭婦人の多くは雪に親しんでいないし、スキーを持っている人もアルペン用である。このような状況の中で歩くスキーに馴染(なじ)んでもらうため、職員と無い知恵をしぼったが、先ず、先シーズン購入した歩くスキー用具をセットで無料貸し出す、行事の時は会場へ持参し貸し出す、ワックスも準備する。ゲレンデは交通至便なところを選ぶなど、まさにオンブにダッコ的発想のもとに始動した。
 かくして同年二月十日、計画的動員でなく一般呼びかけだけでの歩くスキーの集いを真駒内桜山保健保安林を会場に行った、一〇〇人否、五〇人も集まれば成功と考えよう。そして、これを契機に地道に積み重ねていこうと思っていたのに、二四五人という望外の市民参加を得た。そして、額に汗をし、楽しかったですと言ってくれた参加者の顔を今も忘れられない。ここでこの歩くスキーは必ず普及定着するという信念というか確信のようなものがわいてきた。
 歩くスキーの今日に大きく寄与した二、三のことについて述べてみよう。
 その第一にフィンランド国の故エリキ・ピヒカラ氏の来道がある。堂垣内知事が北方圏諸国歴訪の際、クロスカントリースキーの盛況を目のあたりにし、グリーンランドやアラスカ横断などの実績を持つピヒカラ氏を招き、道民に北欧直伝の歩くスキーを披露、指導してもらったもので札幌会場の真駒内森林公園には七〇〇人余という多数の市民が参加し、歩くスキー愛好者急増の引き金となった。
 次に、髭の宮さまで親しまれている三笠宮寛仁親王殿下を忘れるわけにはいかない。昭和五十年の第四六回宮様スキー大会開会式のお言葉で「間もなく五〇回を迎えようとしている宮様スキー大会は、競技選手だけのものでなく広く市民参加の大会であるべきで、歩くスキーを加えるなど、配慮すべき時が来ている」という内容のことを申され、当時の中村勝美教育長もお言葉は至極もっともであり、積極的に推進するよう私どもに指示された。もう一つは、歩くスキー同好組織の結成である。五十年十月に距離スキー関係者や朝日新聞社の肝入りで北海道トリム札幌歩くスキークラブ(本郷精一会長、中川信吾理事長)が結成され、講習会や独自の歩くスキーの集いを実施し、民間サイドでの普及振興に努めた。
 このように、いろいろの方々の力で普及しつつあった歩くスキーに大きな弾みをつけたのが、昭和五十一年元旦の板垣市長の「健康都市さっぽろ」づくりの提唱である。特段大きな経費もいらず、近くには格好な野山があり、気軽に出来る市民の健康・体力づくりに絶好のものとして、この時を境に歩くスキーの普及速度が急激に速まったと言っても過言でない。
 二五〇人程度の参加から始まった歩くスキーの集いも今や一、〇〇〇人を割ることが少なく、二五以上の長距離にさえ三〇〇人からの参加者をみるまでになってきている。このように、予期以上順調に発展してきた歩くスキーにも、この過程に至るまでまことに気の毒な、忘れられない悲しい事故があった。
 昭和五十一年二月一日、二三七人の参加者は、小野幌小学校に集合し、準備体操ののち野幌森林公園へ元気に出発した。それぞれマイペースで仲間やスキーパトロール隊から応援の救護班員らと雑談を交わしながら歩を進めていたところ、予定コースのほぼ中間地点瑞穂池付近で一人のご老人が変調を訴えられ、救護班員と職員数人が付き添い休息していたが、寒くもなるので搬送することとし、スキーとヤッケを組み合わせた急造担架で膝までの雪をこぎながらどうにか連絡してあった救急車に収容した。
 そのころには救急隊員の質問にも答えるほどの状態になっていたが、早速、市職員を添乗させ救急病院へ送った。このご老人、諏訪木義輝さん(六九歳)は、病院到着後、急性心不全症のため去したとの報が入った。なぜ……どこに準備の欠陥が……。頭の中は、あれこれと思いが走る。
 この事件で報道機関からの電話取材各社に共通した質問は、「今後歩くスキー行事をどうするか」ということであった。私は、「今この行事を振り返って、準備、実行いずれの段階でも無理、落度は思い当たらない。冷静に反省し、関係者と協議するが現時点では亡くなられた諏訪木さんは本当にお気の毒であるが、今後も継続するつもりである」と回答し、さらに、事故の末を報告した上司にも「今後も続けたい」と述べた。中村教育長からは「よい内容の行事であり、内容を再検討し続けるように」とのお話をいただいた。
 その上、諏訪木さん宅へおまいりに伺った際、奥様の「主人は昨夜から楽しみにし、今朝も張り切って元気に出て行った。思いがけないことで不幸なことになったが、この事故のために切角の行事が取り止めになるようなことになれば主人も浮かばれない。ぜひ継続して下さい」というお言葉に接し、そのご心情に涙を禁じ得なかった。合掌。
 まことに不愉快な出来事があった。昭和五十二年二月上旬、北教組札幌市支部の幹部数人が来訪した。用件は「自衛隊は憲法違反(長沼事件の地裁判決)なので歩くスキーの行事に協力してもらうのを取り止めよ。しかも演習地内で制服の自衛官の協力を受けるのは容認できない」という趣旨の申し入れであった。
 さらに「若し受け入れなければ集いの当日、現地で体育課長にデモをかける」と言うので、「協力を断る考えはない。通信連絡、救護など下働きのような誰もがいやがることに協力願うのに何がおかしいのか、デモをかけるなら待っている。市民が事の是非を判断してくれるだろう」と答えた。同様のことを地区労からも言ってきたが取り合わなかった。
 これは後日、朝日新聞社が歩くスキーに熱心なのに同社の労組が事実と全く異った内容も含め内部告発的行動に出たもの(労組側のニュースソースは不明)が逆移入された結果であることが判明した。……このことに反発したわけではなく、無関係であるが、その後、長距離歩くスキーのコース選定に当たり、自衛隊の協力を得て演習地の一部を通過させてもらっている。……
 悲しいこと、不愉快なこと、嬉しかったことといろいろなことがあったが、多くの人々の賛意を得て歩くスキーは着実に市民に浸透してきている。髭の宮さまのお言葉のあった翌年の第四七回宮様スキー大会から「宮様スキーパレード」と銘打たれ正式種目となり、名実ともに市民の宮様スキー大会として五十四年は第五〇回を迎え、ますます発展の一途をたどっている。
 スキー、バイアスロン関係者、業界そして同好の士など各方面の努力により、わが「歩くスキー」は、着々と定着化の途を歩んでいる。しかし、未だ七年余、今までの歩みを省み、歩くスキーの良さを体験していない市民に一人でも多く、一刻も早くこのすばらしさを味わってもらい、歩くスキーを通じての「健康都市さっぽろ」進展に努めていきたい。

 5 スキーパトロールの目から見て
芹田 馨

   スキー傷害の変遷とスキーパトロール

 昭和五十二年十一月の福岡市での日本救急医学会は私にとっては忘れ難い一日となった。
 この日「スキー傷害の動的傾向報―入射角によるその予知と警報―」を発表したところ、前日すでに日本経済新聞で取り上げられていたこともあってか反響が大きく、発表後記者会見があり同伴のパトローラーが質問に胸を張って答えているのを見て、さまざまな思いが私の心を(よぎ)って行った。
 札幌にスキーパトロール隊が発足したのが昭和三十五年(一九六〇)の十二月である。発足当時の本州のパトロール隊は企業(リフト)に所属した職員やアルバイトが大半で、一部にマナーの悪い、しかも居丈高な者もいて、救急時には感謝をされたものの、一般にはカミナリスキーヤーと同様スキーパトロールはゲレンデでは敬遠された存在となっていた。
 本州では現在でも北海道のような赤十字奉仕団員による奉仕活動の形式をとっているものは少ない。そのような先入観念での記者の方々が学会で研究発表するパトローラーに奇異の眼を向けるのも至極当然であったのである。
 この時のニュースが海外にも流れ、それによって米国の、温度計では世界的に有名なYSI社から精度の高い温度計の試験提供があって研究が容易になったり、また五十四年は米国立スキーパトロール機構で卓話を求められ渡米するなど、私どもの活動も軌道にのってきている。
 パトロール隊員は、日赤救急法の取得者でスキー技術は一級以上、そのうえ冬のパトロール試験の合格者でなければならない。おまけに一年間は補助隊員として先輩隊員と行動を共にし、推薦を受けて初めて一人前のパトローラーの誕生となる。前述のような本州のパトローラーに比べ北海道では教員、自衛官、会社員など多彩な職業を持つ人々が段階を経てスキーパトロール赤十字奉仕団員となるわけで、それなりに大変な努力をする。
 異性への愛のきっかけが様々であると同様、動機もさまざまである。K君は当時一六歳のカミナリ族、むちゃなスキーで転倒し、頭を打って失神、パトロール処置を受けた。その時の感動が忘れられず、一八歳で日赤救急員、二〇歳でパトローラーとなり、今では隊員生活一〇年のベテランである。ちなみに日赤救急員は一八歳以上、パトローラーは二〇歳以上でなければ取得できない。またSさんは定年になって社会への恩返しにと、血のにじむような努力の末隊員となり、行動のうえでも他の隊員の模範になっているなど、実にいろいろであり、現隊員数は四五〇人を超える

   スキー事故は予知できる

 パトロール隊は現在までに計画出動(札幌スキー傷害防止対策協会による)の土・日・祝祭日と、計画外を含めて約六千件を超える事故を扱っている。スキー事故は普通、未熟な技術での無理な滑降用具の調整不備疲労―などによるものが多い。
 私は昭和三十九年に起きた簡単なコースでの熟練スキーヤーの立木への衝突死亡事故をきっかけに「一定の気象条件下の雪質の急変が不可避的に事故を誘発することがあるのでは」と考え、以後一五年間にわたって気象条件と事故の起こり方の関係を調べてきた。
 その結果、三〇分から一時間の間に気温が五度から一〇度以上の幅で急激に上下すると必ず事故が多発することがわかったのである。気温が急上昇する時の事故の原因としては、雪の水分を含む量が多くなって重くなり、スキー操作が難しくなるためであり、また逆に急激に下がる場合、特にマイナス一〇度以下では体の生理的順応性が鈍くなって、スピードコントロールが不十分になるためと考えられる。
 一般に事故は平均して二時間に一件ぐらいの割合で起こるが、気温が急変し雪質に影響を受けた直後には、三〇分に三、四人ものケガ人がパトロール詰所にかつぎ込まれ、まさに阿鼻叫喚(あきょうかん)の状態となる。さらに私は気温の急変から雪面に変化が起こり、事故の多発までには三〇分乃至一時間の時間差があることに気付き、気温の急変の最初の兆候を確実に知ることが出来れば事故多発を予知し警報が出せるのではないかと考えた。
 そのため詳しく気温変化の型などを調べた結果、一日の温度変化はその該当する月によって絶対的な高低はあるが、ほぼその月の平均気温の変化に平行または極く近いなだらかな曲線を描くしかし、一カ月に数日は一日のうち、この曲線より大きく(かい)離した温度の急変があるそのような変型の気温変化は五型に分類出来るその月の平均気温変化のグラフの上にその日の温度変化を描き、時間ごとの接線の交わる角度「入射角」を計れば気温の急変の最初の兆候が察知でき“事故多発時間”の約一時間前に予知できる、ということを知り前述の学会で発表したのである。
 ゲレンデ放送を通してスキーヤーへの注意の喚起はこのような科学的根拠に基づいているのである。

   スキー傷害の実態

 ここで昭和三十五年から現在までの用具の変遷に伴っての事故の動態に触れてみよう。
 最近のスキー人口の動態は爆発的ブームは去り、大体安定したものになっている。しかし傷害は依然として多く、また用具の面でも画期的進歩があり、その普及はめざましいものがあるが、これによりタイプの異なった傷害に移行するとともに、なかには相当の重症例も見られることは遺憾である。

傷害発生率 北海道における傷害発生率は総入山数と発生件数から相当高い精度で推定出来、その幅は〇・〇三%から〇・〇七%であり、平均発生率は〇・〇五%である。特に昭和三十年代に比し、その発生率はに減少しており、また本州のそれに比し程度である。
傷害の種類 別表は昭和三十五年から昭和五十五年までの二〇年間を三大傷害と呼ばれる発生頻度の高い切挫創・骨折・捻挫について、札幌市とその周辺スキー場一四カ所を対象に各ゲレンデのパトロール詰所で救急処置を施した受傷者五、四四四人について統計処理したものである。これは用具の変遷の観点からプレオリンピックの昭和四十六年を中心に二分したものだが、骨折は一、〇〇八件三一・二%と前半に比べ一二・三%、件数で約二倍の増加が認られその誘因としてセフティ・ビンディング(release binding)調整の不備が考えられる。しかし、その後“調整の方法”を一般スキーヤーへ普及させるための努力が払われるようになって、昭和五十年代ではむしろ減少の傾向を示すようになり、受傷率一位の座を昭和五十一年以降は捻挫に譲るようになった。
 切挫創は件数では二二六件増加したものの、その発生率はほとんど同様で、また図1で明らかなように、昭和四十年代の減少傾向は昭和五十年代に入ると再び急激に増加し骨折を押えて二位の座を占めている。特にその受傷の度合いは数ミリだが、台の外側に出るオフセットエッジがほとんどのスキーに装着されている現在、重症例も多く、新たな問題をひき起こしている。
 例えば、自己スキーによる打撲・切挫創は昭和五十年代に入って急激な増加の傾向を示している。これはスキーと靴をつなぐ「流れ止め」を付けているためで、転倒時足首部を支点にして回転するスキーによるものであるが、セフティ・ビンディグを使用している以上流れスキーによる他人への加傷を考えると止むをえないもので、むしろ自分の頭、顔面部を防護するための厚手の帽子またはヘルメットの着用を勧める。
 米国のエテリンガーは七%の切挫創のうち、四%は自己スキーによるものと報告している。
 昭和五十四年開場の高所にあるAスキー場では他スキー場の切挫創が二〇%を超える発生率が認められるのに比べ、米国とほとんど同様の八・四%の発生をみるに過ぎないのは、スキーヤーが寒さのため使用する帽子が厚手のため防護の役目をしているのではないかと推測している。
受傷者の年代と性別 傷害傾向はゲレンデでのスキーヤー組成と非常に大きな関わりがある。例えば北海道のように子供の占める割合の多いゲレンデでは骨折が多い。転倒時、荷重によって足部から開放され離脱するセフティ・ビンディングの調整が、体重の軽い子供の場合難しいのが当然で、その上技術的にも初心者に属することからその発生率は五〇%を超える(図2)。従来カミナリスキーヤーと考えられていた高校生と、一九歳以上二四歳までの層はともに減少傾向を示している。これは前者は受験のためでスキーヤー組成に占める割合が少なく、また後者は技術的に上・中級に属するので少ないのではないかと推定している。
全傷害と下肢主要疾患 下肢における典型的な捻転性損傷のうち、比較的多いものは足関節の骨折、帯の損傷、下肢の捻転性骨折および膝関節の内側帯の損傷がある。また頭から突っ込むようなタイプの転倒によって起こるスキー・ブーツの上縁部付近の骨折、いわゆるboot-top level fracture も多い。セフティ・ビンディングの普及から昭和四十七、四十八年をピークに下骨折は減少傾向にあるが、ハイバック・ブーツの上縁を支点としたこの種の骨折は依然として多い。ウレタンを素材にした硬ケミカル・スキーブーツは足関節をギブス様に固定するため、足関節捻挫や足関節骨折は減少させるのに十分であったが、逆に膝関節の捻挫・骨折が徐々に増加しているのが認められる。
 初心者の転倒はスローツイスト型のゆっくりした転倒荷重のためrelease bindingの解放が起こりにくく捻挫が多い。したがって私どもはスキー場におけるスキーヤー組成で初心者の占める割合が多い場合は捻挫が多く、また湿雪による傷害発生の原因である操作性トラブルによる影響も初心者は他の上、中級に比べて大きいものであると考え、私どもはパトロール体制を、そして救急体制を考慮している。

   おわりに

 スキー傷害防止の思想の普及は関係者にとっての課題である。
 パトロール活動の本務は救急処置ではなく、いかにして事故を起こさないかにあるからである。現在のパトロール活動は前述のごとく、科学的根拠によって実施されている。航空写真を用いてのスキーヤーの占有面積の調査、さらには地域差による滞山時間と疲労との関係など各分野に及んでいる。
 もっとも大きな課題であるスキーヤーの占有面積が、傷害の発生に大きなかかわりを持っているのは過去も現在も同様で、スキー場の機能的整備とパトロール活動は明らかに発生率の減少に寄与している。そのため環境アセスメントに一致したスキー場の開発が一層望まれる。

冬のスポーツ略年表
明治10年
札幌農学校(現北大)に赴任した米人ウィリアム・ブルックスが、持参したスケートで滑る。以降、それを見た少年たちが各自工夫を凝らして、竹ぞうりなどで滑るようになる。
明治24年
3月 札幌農学校教授新渡戸稲造が海外留学の帰りにアメリカ製スケートを持ち帰る。
明治27年
1月 新渡戸稲造の熱心なスケート普及活動によって、札幌農学校予科、北鳴学校の生徒がスケーチングクラブを設立する。
明治39年
12月 札幌農学校に文武会スケーチング部が設立される。
明治41年
9月 スイスからハンス・コラーが東北帝大農科大学(現北大)の教師として来札、二本杖のノルウェー式スキーとヘイク著の手引書“Der Schi”を持参する。
明治45年
2月6日 高田で初めて正式にスキーを教授したレルヒ中佐が来道、旭川で将校ら二四人に単杖のアルパインスキー術を教える。そこで講習を受けた月寒二十五連隊の三瓶勝美中尉ら三人によって、翌月、札幌郊外の月寒で六日間、講習会を開く。
3月31日 講習を受けた学生たちが、藻岩山スキー登山をする。
6月 東北帝大農科大学文武会スキー部を創立する。
大正3年
2月22日 銭函でスキー競技会を開く。種目は約二のレース。
大正4年
2月21日 東北帝大農科大学スキー部が円山南斜面で競技会を開く。
大正5年
東北帝大農科大学教授遠藤吉三郎が欧州から帰朝。複杖のノルウェー式スキー術(ノルディック式)の紹介と普及に力を注ぐ。
大正6年
東北帝大農科大学の学生が、初の手稲山スキー登山および札幌―石狩間の平地滑走を行う。
大正9年
1月25日 札間スキー駅伝行われる。この年 札幌野球協会スケート部が設立される。
大正10年
1月 札幌野球協会スケート部から分離して札幌スケート協会が設立される。
2月11日 札幌中島公園池のリンクで第一回競技大会が開催される。
6月25日 『山とスキー』発刊。
大正12年
12月 三角山に初の固定ジャンプ台・シルバーシャンツェ完成。この年 北大の本科と予科がわが国初のアイスホッケー試合を行う。
大正13年
1月 北大主催による第一回全道中等学校氷上競技大会が中島公園池のリンクで開催される。
2月3日〜4日 第一回北海道スキー選手権大会が開催される。
大正14年
2月11日 第一回氷上カーニバルが開催される。
大正15年
手稲山にパラダイスヒュッテ完成。
昭和2年
奥手稲山にヘルベチュアヒュッテ完成。北海道氷上競技連盟が結成される。
昭和3年
1月21〜22日 中島公園池リンクで第一回北海道氷上競技選手権大会が開催される。
1月 スイス・サンモリッツで開かれた第二回冬季オリンピック大会に日本初参加。
2月 札幌で第六回全日本選手権大会(ノルディック種目)が開催される。
同月 秩父宮さまが来道され、札幌近郊、ニセコでスキー散策をされる。
昭和4年
1月 ノルウェーのヘルセット中尉、スネルスルード、コルテルードが来札し、スキー術の指導、宣伝のほかジャンプ台建設地(大倉シャンツェ)を選定する。
同月 高松宮さま来道され空沼を散策される。
4月12日 札幌スキー連盟が創立され、会長に橋本正治市長、相談役に大野精七らが就任。
昭和5年
1月18〜19日 第三回学生スキー選手権大会が開催される。
2月11日、15〜16日 特設荒井山記念シャンツェを中心に、第一回宮様大会が開催される。
昭和6年
7月 大倉シャンツェ建設に着工。
10月 大倉シャンツェ完成。総工費は五万四八円。
昭和7年
1月16〜17日 第五回全日本学生スキー競技大会が開催される。
昭和8年
2月10〜12日 第一一回全日本選手権大会を兼ねた第四回宮様大会が行われる。
昭和10年
3月10日 北海道初のアルペンスキー公式戦である第一回スラローム大会がゲンチャンスロープで開かれる。
昭和12年
6月 一九四〇年(昭和15年)に開かれる第五回冬季オリンピック大会の開催地が札幌に決まる。この年 札幌ボブスレー協会、日本ボブスレー協会が設立され、ドイツから関係者を招へいし、札幌市郊外の神社山付近のコース予定地の測量および設計が行われる。
昭和13年
1月 中島公園特設リンク(地上散水)で第九回全日本氷上競技選手権スピード競技大会が開催される。
7月、日華事変のため、第五回札幌オリンピック冬季大会の返上が決まる。
昭和14年
2月26日 第一〇回宮様スキー大会飛躍競技で浅木文雄選手(北海商)が七九の大倉シャンツェ・バッケンレコードを樹立する。
昭和17年
4月 スキー連盟、スケート連盟は、全日本体育協会が政府の圧力で解散させられ、大日本体育会の部会として新発足。
昭和21年
3月 第一回全道スキー選手権大会が開催され、四二〇人が参加する。この年 藻岩山に米軍スキー場開設される。
昭和24年
3月3〜7日 第四回国民体育大会スキー競技会兼全日本スキー選手権大会を開催。
昭和25年
2月18〜19日 第二一回宮様スキー大会で長距離青年組、落合力松選手(酪農)が五連勝を達成する。
3月5日 国体スキー大会で木谷初江選手が新複合で三連勝を飾る。
8月15日 国際スケート連盟の総会で日本スケート連盟の復帰が認められる。
昭和26年
2月10〜11日 スイスのダボスで開かれた世界スピードスケート選手権大会に、戦後初参加、内藤晋選手(北海道新聞)が五〇〇で43秒0の日本新記録で優勝する。
昭和29年
1月16〜17日 男子世界スピードスケート選手権大会を札幌円山陸上競技場リンクで開催。
1月28日〜2月1日 第九回国民体育大会スケート競技会が円山競技場で開かれる。
昭和31年
札幌初のリフトが荒井山に完成する。
昭和33年
3月 第一三回国民体育大会スキー競技会が開かれる。
昭和34年
3月 第三〇回宮様スキー大会を記念し、初の国際競技会を開く。
昭和37年
2月 全日本スキー選手権大会で菊地定夫優勝、39年まで三連勝を果たす。この年 札幌ボブスレー・トボガニング協会が設立される。陸上自衛隊北部方面スキー訓練隊が、初めてバイアスロン競技を行う。
昭和38年
2月22日 大倉シャンツェで菊地定夫一〇二、笠谷幸生一〇一・五を跳ぶ。
3月 第一回バイアスロン全国大会を真駒内で開く。
9月 日本リュージュ連盟が結成される。
昭和39年
12月 三角山の山裾にリュージュの練習用走路をつくる。
12月23日 札幌市議会で一九七二年冬季オリンピック招致を議決する。
昭和41年
4月27日 第一一回オリンピック冬季大会の開催地が札幌に決まる。
昭和45年
11月22日 二年越しで改修を進めてきた大倉山ジャンプ競技場が完成する。
昭和46年
2月7〜14日 札幌国際冬季スポーツ大会(プレオリンピック)開催される。
昭和47年
2月3〜13日 第一一回札幌オリンピック冬季大会が開催される。七〇級純ジャンプで笠谷幸生、金野昭次、青地清二の三選手がメダル独占。複合で勝呂裕司が五位、リュージュ女子で大高優子が五位入賞を果たす。
昭和49年
1月24〜27日 第二九回国民体育大会スケート競技会が開かれる。
2月 宮様スキー大会の純ジャンプ・複合等がFIS(国際スキー連盟)の公認競技会となる。
昭和54年
2月22日 第五〇回宮様スキー大会記念式典が行われ、四宮家をはじめ、一、八三三人が参加する。
昭和55年
1月 FISジャンプ・ワールドカップ札幌大会が開催される。
2月3日 札幌市冬のスポーツ博物館がオープンする。
2月12〜24日 アメリカ合衆国レークプラシッドで第一四回冬季オリンピックが開催され、七〇級純ジャンプで八木弘和が二位、秋元正博が四位になる。

「さっぽろ文庫」の刊行にあたり

 創建以来一世紀を(けみ)した札幌は、ほかの都市にみられない独特隆盛の歴史を有し、若く柔軟な都市のイメージを持って二世紀の力強い歩みを続けています。このとき、先人の文化遺産を受け継いで郷土の認識を深め、かつ未来展望を伐り拓くことの大切さを思い、ここに文化叢書「さっぽろ文庫」の刊行を発意しました。
 その意図するところは、札幌の風土のなかで生まれ育った芸術・文化・社会・自然の諸相を計画的にまとめて市民に提供し、過去・現在・未来をつないで独自な<さっぽろ文化>の創造と、新しい<ふるさと札幌>を築くための糧とすることにあります。
 この文庫が、札幌の心を知っていただく拠りどころになることを願うものです。
  昭和五十二年九月
札  幌  市
札幌市教育委員会


あ と が き

 有島武郎の「観想録」のなかに<氷辷戯>の字でスケートのことが出てくる。札幌農学校在学中の明治三十年十二月八日の日記で、彼十九歳のときのこと。そこのところを少し抜いてみよう。
 冬の円山公園や豊平川を愛でたあと、「これに次ぎ余をして最も快感あらしめしものは氷辷戯なりき。余此戯をなす既に昨年に始まれりと雖も、未だ練習数回ならずして春暖融雪の候に遇ひて事止みにき。此冬季休暇に際してや毎日辷具(スケート)を携へて氷池に至りてこれを試む。七転八倒満身流汗淋漓として厳冬を知らず、其(かい)実に名状す可からず」。
 氷辷戯という(あて)字や、あの有島武郎が、と思うとまことに微笑ましい。しかも「これ到底東京人士の解する能はざる快味なる可し」とまで言いきり、翌年の元旦からスケートを楽しんでいるのである。
 スキーもスケートも明治年間に北大の前身である農学校や農科大学の先生がもたらし、この札幌の地に定着したスポーツだ。もはや札幌市民にとっては欠くことのできぬ存在であって、その様相を捉えたのが本書である。
昭和五十六年二月     
木 原 直 彦
執筆者(50音順)
赤坂富弘(日刊スポーツ北海道本社編集制作局長)
朝日 孝(北海道大学理学部助教授)
有坂隆祐(北海道スケート連盟副会長)
大野精七(札幌スキー連盟名誉会長)
小原正巳(スポーツ評論家)
落合力松(札幌スキー連盟専務理事)
河村隆盛(札幌市教育文化財団理事長)
河村泰男(北海道スケート連盟副会長)
菅 忠淳(エッセイスト)
久保 信(北海道スケート連盟会長)
小玉昌俊(札幌市教育委員会体育部長)
芹田 馨(札幌スキーパトロール隊長)
内藤 晋(北海道スケート連盟スピード部委員長)
中川信吾(北海道歩くスキー協会理事長)
真鍋晃雄(北海道新聞社運動部次長)
宮崎兼光(北海道体育指導委員連絡協議会会長)
宮田 泰(北海道大学北海道同窓会事務局長)

口絵カラー写真撮影・提供者(50音順)
ウエストプロフォート  札幌市環境局緑化推進部  札幌市教育委員会文化資料室  札幌市冬のスポーツ博物館  札幌スキー連盟  サッポロスタジオ さっぽろ文庫 
札幌随筆集   非売品
昭和56年1月20日 印刷
昭和56年2月2日 発行
編集 札幌市教育委員会文化資料室
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