さっぽろ文庫16 目 次
冬のスポーツと私
板垣武四
序章 冬・生活とスポーツ
宮崎兼光
はじめに 札幌の開拓 大正・昭和のはじめ
生活としてのスキー・スケート スキーの競技化と山スキー
ヒュッテ 戦後の札幌の冬 冬の祭典
第1章 スキー
1 札幌・スキーの歩み
大野精七
札幌のスキーの父はスイス人ハンス・コラー先生
スキー場とシャンツェ 荒井山と大倉山 円山競技場周辺
昭和十五年の札幌オリンピックを返上
戦後、大きく発展した民間スキー場 三十一年、荒井山にリフト
歩くスキーで健康づくり
2 ノルディックスキー
小原正巳
距離競走 距離競走のルール
ジャンプ競技 ジャンプ競技のルール
複合競技 複合競技のルール
3 アルペンスキー
中川信吾
アルペン競技の草分け時代
札幌が生んだ名選手たち 競技の見どころ勝負どころ
スキー用具の移り変わり アルペン競技のルール
第2章 スケート
1 札幌・スケートの歩み
久保信
スケート用具について 札幌のスケート場
札幌スケート協会の創立 札幌で開催された競技会
2 スピードスケート
河村泰男
スピードスケートの歴史と発達 札幌における競技会の今昔
札幌出身の名選手たち 競技の解説とみどころ
3 フィギュア
有坂隆祐
フィギュア・スケーティングの歴史 競技ルールの改正
技術の変遷 採点とみどころ 札幌のフィギュア・スケート史
4 アイスホッケー
朝日孝
札幌クラブ チビッ子チームの誕生 実業団の活躍
リンクと競技ルール
第3章 行事
1 宮様スキー大会
赤坂富弘
大会誕生と札幌スキー連盟
大倉シャンツェと記録 苦難の時代から大会復興へ
大野精七と北海道スキー界 活躍した名選手
2 世界スピード選手権
内藤晋
札幌開催が決まるまで 大会の歴史 日本と世界選手権
日本にあこがれていたアンデルセン 氷つくりの苦労
大会開幕 レース経過 タイトルは再びソ連へ
戦い終わって スケート界に及ぼしたもの
3 札幌オリンピック冬季大会
河村隆盛
札幌オリンピック開催の意義 オリンピック招致の不成功
開催決定 大会の準備 全日本冬季競技総合大会
札幌国際冬季スポーツ大会 聖火リレー 開会式 競技
閉会式 市民の協力 大会の評価
第4章 冬の遊び
1 雪戦会
菅忠淳
その歴史 概要とルール 紙上に再現 エピソードを拾う
2 氷上カーニバル
久保信
発足のころ 戦後のあゆみ
3 スキー登山
宮田泰
スキー登山のはじめ スキー登山発祥の手稲山 春香山と奥手稲
札幌岳と空沼岳 無意根山
ヘルヴェチヤヒュッテから
第5章 こぼれ話
1 話題を追う
小原正巳
死の耐久レース “スキーの王様”関口勇
カラスに悩まされた氷づくり 鞍馬シャンツェとスノーホッケー
鉄人「栗谷川平五郎」 全校応援で盛り上がった中学スキー
〇・二五度差で勝った札幌オリンピック
2 名選手群像
真鍋晃雄
〔スキー〕ジャンプ 距離 複合
〔スケート〕スピード フィギュア アイスホッケー
3 わが体験
私のスキー人生
落合力松
スケートとともに歩んだ半生
内藤晋
4 歩くスキーとともに
小玉昌俊
5 スキーパトロールの目から見て
芹田馨
冬のスポーツ施設マップ
冬のスポーツ施設一覧表
札幌市冬のスポーツ博物館
冬のスポーツ略年表
あとがき
装画<スキー> 栗谷川健一
本文イラスト 馬場 護
カバーデザイン 浪内 一雄
序章 冬・生活とスポーツ
宮崎 兼光
はじめに
北国の生活を、札幌創建の時の史料に基づいて想起してみた。スキー・スケートが生活用具から競技化される過程は長くはかからない。人は、いつも活気に満ちていれば競う心がある。明治末期から昭和十五年ごろまではこの傾向の大きい時であった。戦後は昭和三十年ごろまでを競技の復興期とし、それ以後をスポーツの国際化と観光レクリエーションの期としてとりあげた。
スポーツは、相手が人でなくとも、自然でも、動物でもよい。自分の力を試してみて自信を深め、そのことで己を発見し自分を鍛えあげていく作業である。雪国で寒冷に負けたら死を意味するから、そのためにも事前にち密な調査や計画をたてての研究が必要なことは山歩きだけのことではない。私たちは北海道の歴史を漠然と眺めていてはいけない。雪国は荒れ狂う天候と美しい晴天が交錯して訪れる。前者で防備と、後者で攻撃が、自然と身について性格が形成されてきているようだ。そしてこのリズムに乗って生活する必要がある。寒冷に耐える方法、雪を利用して生活に潤いをもたらすこと、時代の流れに遅れぬことを永久に続けていかねばならぬと思う。
札幌の開拓
箱館(現在の函館)は、本州との連絡上地理的に有利であったので早くから開けていた。しかし、全道を統括する首都は石狩国でなければならないという有力者の意見と、北地巡視の経験も買われて、島義勇が命をうけて、明治二年(一八六九)十一月十二日の冬の最中に札幌本府創建の事業に着手した。島は将来の大都を夢み、雄大な構想を描いて努力を続けた。地味が肥えて交通の便が良ければ、人が自然に集まり住みついて村となり町となるのだが、札幌はこうした過程を踏んではいない。すぐれた考えと鋭い目でとらえた人為的な造成による創立であった。未開地は必要物資の需給や特に食糧入手の苦労、経費の予算が驚くほど超過し、島は更迭された。
しかし、島の意図のすばらしさが見直され、明治三年(一八七〇)に岩村通俊があとを継承して指揮監督を行い、形態は整えられた。移民を招致して急激な街づくりが進んだ。明治六年と七年に北の護りと開拓を目的として屯田兵制が創設され、明治十九年(一八八六)北海道庁が設置されて岩村通俊が初代長官となった。
いま、藻岩山や円山の山麓谷間のごとくに北大構内、植物園、中島公園、大通九丁目などの大木にクマザサの茂る荒野を配して昔日をしのべば、人は集団生活を必要とする生物であるにもかかわらず、開拓の時はその人もいない。密林の中で樹を倒し根を掘りおこし、種をまいて野菜を作り、開拓の土地面積を広げる。屯田兵の開墾は生やさしいものでない。掘っ立て小屋で過ごす冬の厳しさは想像に絶するだろう。
防寒の備えも無く、空腹のクマが人家を襲い、北海道に送られた囚徒が明治十五、十七、十八年には集団脱監して凶悪な犯罪を行うなどの、恐怖戦りつをこらえ、荒れる冬空に鳴る風、小屋に吹きつける雪つぶてを、明かりも無い部屋で細々と暖をとりじーっと耐え忍ぶ生活を毎日繰り返したことを考えると、昔の人はどんなにか忍耐心の強い克己の人であったかわからない。富を夢みる旗上げ者で、寒冷な気象に耐えられなくて、文化の花咲く西方の故郷へ逃げ帰った者も多いと記してある。
大正・昭和のはじめ
十月になって、明け方、床の中で足を縮めたりするような冷え込みを覚えるとき、外には草や屋根に霜がおりている。十日前後から初氷が上川盆地、十勝平野、倶知安といった内陸地方から始まる。木枯らしが訪れると次に雪が来る。白鳥の飛来が報ぜられ、白い細かい綿のような雪虫が飛び、庭さきには落葉をたく煙、畑には霜よけの煙がなびく。越年用のダイコンが軒先や垣根に干され、ストーブが取り付けられ、落雪でガラスが割れることの無いように横板を打ちつけて気ぜわしい冬仕度が一斉に行われる。今はこんな情景は見られない。
六花の結晶をした雪が空から舞いおりて来ると、子供たちは手を振り足を踊らせて飛び走る。大きく口をあけて雪を受けとめ、その感触を味わう。雪は降っては消え、消えては降りを繰り返し、その量が多くなると道路は泥水化して歩くに不便を覚える。こんなとき早く寒気が道路を凍らせて雪触けがないことを願う。一夜に二〇〜三〇も降り積もると、挨拶に「もう根雪でしょうか」という言葉が交わされる。根雪とは春先まで消えない積雪を言い、人々はいよいよ雪国の生活に入る覚悟を決める。
降雪の度に家中の者が雪かき(じょんば―木製でスコップ型のもの)を持って除雪をする。または、むしろを敷いて上から踏み、圧雪して道をつくる。これは雪国に生活する者の習慣的マナーであった。街路の大通りは、馬そりが前に三角の板(ラッセル車のように)をつけて一筋の道をつける。家々の煙が黒々と立ち上り、人の行き交う数が多くなって朝の活動が始まる。
時折、一日に一を越すような降雪もある。汽車も馬そりも動けず、人や物資の移動が止まる。人々は陸の孤島化した中で、雪のしまるのを待ち、耐え忍ぶ生活を送る。こんな場合が度々あるので、雪国の人々は米やつけ物、野菜、魚などを貯蔵する。土を掘り雪を固めると、それぞれ格好の貯蔵庫となる。雪と闘う半年は、粘り強い不屈さを持った北国人の性格形成をなし、物を貯え、質素倹約の習慣を身につけさせてくれたと思う。現在は文化が、また消費を美徳とした思想が、こうした特質を失わせていることが残念である。
生活としてのスキー・スケート
明治時代は欧化主義による体育と尚武的国粋主義による体育の両者が認められた時代で、日清・日露の戦争期に入りますますこの傾向を深め、心身に対する教育も熱を帯びた時である。雪中行軍は大いに志気を高め青年の鍛練に利用されたが、人跡未踏の雪中登山はその最たるものであったと思う。
明治十年(一八七七)に札幌農学校(現北海道大学)教頭のクラークが、生徒を連れて手稲山の冬登山を試みているし、三十二年(一八九九)二月には独立歩兵大隊(後の歩兵二十五連隊)の雪中行軍を参観するため札幌の各校が藻岩山に登り、雪くずれによる遭難事故を起こした。北海中学校が四十年(一九〇七)ごろから毎年藻岩山の冬登山を実施している。当時、生徒はかすりの着物にはかまばきが多く、積雪腹部までもある中を飛び越え泳ぎ渡り、全身びしょぬれで、今思えば蛮勇とも言うべきである。
子供も積雪の中に走りこんで、あとに続く者たちでいつしか細い曲がりくねった道が出来ると、その道の中を追いかけ鬼遊びに変わる。屋根から飛び降りることもやる。屋根から滑り落ちて出来た軒下の雪山を尻滑りをする。親に叱られても叱られても、次の日には再び同じことを繰り返す。雪だるまを作ったり、坂をこしらえたり、雪合戦に興じたりするさまを観察していると、雪は無限の遊びを子供に与え、創意工夫を引き出していると思う。
冬の歩行は大変で、かんじきは手放すことの出来ない歩行具であった。そんな生活の中にスキーが紹介された。
高田でのスキー 明治四十四年(一九一一)一月、高田において第十三旅団長岡外史は、オーストリアの武官テオドル・フォン・レルヒ少佐にスキー術を習うことにした。官尊民卑の観念の強い時代に、軍隊が主催し、一般大衆にも門戸を開き半強制的に講習員を集めて実施された。受講者は全国から集まり、帰国後は講師となって伝達をするので、スキーの普及は目覚ましいものであった。
札幌でのスキー 明治四十一年(一九〇八)に農科大学(現北大)にドイツ語教師のスイス人ハンス・コラーがノルウェー式の二本杖スキーを紹介し、学生は大いに興味を深めてコラーの一台のスキーを借りて滑った。記録は確かでないが四十一年からだと思う。待つ間がもどかしくて、形が似ているからと豊平の馬そり屋にスキーを持って行き製作をたのんだという。恐らく重い不格好なスキーだと思うが、出来たものを着けて得意げに、そして試行錯誤を繰り返し練習に励んださまを思うとほほえましい。
後にスキー発祥で論争が起きたが、軍隊という大きな組織が展開した高田を発祥の地としたいきさつもあった。
旭川でのスキー 明治四十五年(一九一二)二月に、旭川第七師団に派遣されたレルヒに指導をうけた。高田の時と同様に、北海道の各連隊からと地方の希望者を含めて二七人が三週間の練習を行っている。三月二日に近文の半面山を登り、十四日には遠く美瑛山麓まで行軍を実施しているが、この研究会は道内スキーの普及や需要の高まりにあるスキー注文を促進し、オーストリア式とノルウェー式の優劣を論じ、各地の雪中行軍や登山を盛んにしている。四月十七日には第七師団でレルヒ中佐(昇任)とスキー研究委員長北川中佐を含む八人で蝦夷富士(羊蹄山)登山を実施し、日本空前の壮挙と報道された。
しかしスキーの普及度はなんといっても、札幌、小である。同年十月小に、十二月札幌にそれぞれスキークラブが誕生し、練習会がしばしば行われた。その度に、レルヒに指導をうけた三瓶勝美中尉や中沢、門田少尉が、要請をうけて札幌、小へ出向して熱心な指導にあたってくれたその功績も大きくとりあげねばならない。この普及ぶりや練習風景、スキーの効能が毎日のように新聞に掲載された。雪の深い、冬季交通の途絶するのを憂えた、地方の人たちには強い印象を深めさせていただろう。山野、湖沼いたるところを跋渉し、ノルウェー・スキーの両杖が流行してからは軽快性が発揮されて、スキーの行程は延び競技化にも向かった。当時の民情としては、厳寒で零下一〇度もあれば、降雪中は家に閉じこもり勝ちになる。スキーをするためには薄着で戸外に出ることになり、全身運動で身体を鍛練して進取闊達の気を養うことが出来る。滑降には沈着と機敏な対応を必要とし、胆力と頭脳のち密さを育てる。スキー運動の教育効果も自覚した。積雪は今まで人を圧迫していたが、これからはこれを利用して積極性を高めなければならないと悟った。こうしてスキーは先ず冬の生活に密着した生活用具として発達がみられた。
スキー利用が交通のために利用され、通学、郵便配達、電線修理、測量、林野の管理などで活躍する人の足がわりになった。
スケート 北海道でスケートが始められたのは、明治十年(一八七七)に札幌農学校(現北大)のアメリカ人教師ウィリアム・ブルックスが自国から持って来たスケート靴で滑ったのが最初とされている。二十四年(一八九一)には新渡戸稲造が、アメリカから三足のスケートを持ち帰ったのを、学生たちが使用して盛んに滑ったという。
三十九年(一九〇六)一月十二日の北海タイムス紙は、戦争で満州の山野を跋渉した者が、「アメリカの東北部にあるヴァーモント及び東ニューヨークの両州で、少年が冬季に用いる一本脚のそり(ジャンパー)を、北海道の雪中旅行によし」と勧めているのを紙面でとりあげている。また当時、美濃部俊吉(拓銀頭取)や松村松年(農科大教授)がドイツ、イギリスでの氷滑りを雪中娯楽法として勧めている。その点スキーよりも歴史は古い。
札幌の中島の池、道庁の池、北大構内の池(工学部横にあった)をスケート場として利用していたようであるが、そのころは仙台で使用していた日本独特の下駄スケートが主であった。これはアメリカ製スケートを模倣したもので、明治四十年(一九〇七)ごろ諏訪湖で盛んに滑っていたものである。
大正九年(一九二〇)に日本スケート会が誕生するまでに発展し、十年一月九日に札幌では野球協会から分離した札幌スケート協会が中島公園でスケートの開場式を行い、十一日スケート大会を主催している。競走のほかに熟練者によるフィギュアーの模範演技が披露されて非常なにぎわいを見せた。この大会で成功を収めた札幌スケート協会は大衆の傾向を集約しその後の指導体制をつくったわけである。スケート場が限られ、靴やスケートが高価で、あまり普及はみられなかったが、遊戯・冬季運動として展開されていた。
下駄スケートは子供たちにとって唯一の冬の遊具で、幼児はゲロリー(ベッタ)を使用し、馴れると下駄スケートで、馬そりや人の歩みで固まった道路で遊ぶ。馬そりのうしろにつかまって滑るなど、車の無い時代なので危険も無く、子供の遊ぶ数も多かった。
スキーの競技化と山スキー
大正五年(一九一六)農科大水産学科教授の遠藤吉三郎が北欧留学から帰国した。彼は研究のかたわら、本場ノルウェーのスキー術を学び、スキーと新知識をもたらした。用具もレルヒの伝えたアルパインスキーの重い締め具に比べて、軽く簡易で両杖使用の行動自由なノルウェー式に変わっていった。遠藤は今一つジャンプを伝えた。独学で練習を続けていた学生大矢敏範は、遠藤の指導によって後輩の前でジャンプをしてみせたという。明治四十五年(一九一二)に誕生した北大スキー部が大正九年(一九二〇)一月二十五日に札間のスキー駅伝を主催した。若者はいつも全力をもってぶつかっていけるものを求めている。これは北海道で初めての本格的な競技会で、後に札中等学校スキー競技会、全国中等学校スキー大会へと発展する。
一方、スキーを経験した者はその魅力にとりつかれ、友だちを集めてツアーへと発展していった。
札幌鉄道局では大正十一年に『鉄道沿線のスキー好適地案内』を、鉄道省は大正十三年に『スキーとスケート』という冊子を発行して北海道のスキー・スケート地を紹介している。それでは札幌のスキーファンの利用地を三角山付近でジャンピングに励む手稲山付近の斜面を滑る円山の南斜面での練習に三分している。明治末期のスキー初練習場は競技開催場としての体面を整え、ツアーに出かける好適地に手稲、奥手稲、春香山一帯を示し、専ら初歩練習の場として円山南斜面を紹介しており、当時の様子がよくわかるような気がする。南斜面の向かい山はカラス山、ゲンチャンスロープ、温泉山(通称で現在は日本通運療養所や旭山公園になっている)などの種々のスロープがあり、足の馴れた者はここから藻岩山にも幌見峠にも登ったものだった。
ヒュッテ
手稲山頂から札幌市街を見る。石狩川や豊平川のうねりが日本海に注ぎ、白波が誘う先に遠く天塩岳の連峰を見る眺めは美しく、樹間を滑り降る粉雪の感触や、下から見上げる自分の滑り跡を快くうけとめる山スキーのだいご味も良い。しかし林間に厚い雪をのせて私たちを待っていてくれるヒュッテは一幅の絵である。スキーヤーには無上の安息の場である。
ヒュッテで、ドラムかんを二分したようなストーブに太い樹木を投げ込んで食事の煮たきをしながら、ランプの明かりの下で語りあう山男の交わりは楽しく懐かしい甘さがあり、街で味わうことの出来ない素朴さがある。ヒュッテは北大がパラダイス、ヘルベチュア、空沼、無意根、奥無意根、長門の各小屋を建設。奥手稲には国鉄山の家が建てられた。小梅屋運動具店が天狗山に、小スキークラブが朝里にヒュッテを建て、定バス会社が峠の小屋、白樺ヒュッテを、定山渓鉄道が冷水小屋を、北海タイムス社が銀嶺荘をそれぞれ建設し、その他にも三つほどあった。
戦後の札幌の冬
北海道は戦争による爆撃破壊の損害が僅少であったため、既存の施設を利用することで立ち直りは極めて短期間であった。そして種々の行事が北海道に、それも札幌に集中して開催されるので、道民は他県他国の人を迎えもてなすことへの努力が大きかった。北海道を訪れる人には昔ながらの落ち着きとゆとりが、なにか古い物が持つ情緒のように漂うのを感じていただろう。冬は一面白雪に覆われて、家並みも道路も葉を落とした街路樹も簡素化されて広さを覚えたと思う。また戦後、近代的な大都会の出現によって、いつしか失われた自分のふるさとを慕う郷愁になって、思いを新しくしていたかもしれない。
二十一年から正式に中学校・全道・宮様スキー大会が開催され、翌年は札幌スケート連盟の謝肉祭が、二十四年三月には国体スキー大会開催。二十五年二月には心の中に灯りを求めて札幌雪まつりが開催。二十六年十月から民間航空が再開されて他府県や諸外国との交流も激しくなった。二十七年に札幌中島野球場にスケートリンク造りをして、日米交歓アイスホッケー試合を行う。
この成果を生かして、二十九年には男子世界スピードスケート選手権大会を円山の陸上競技場で開催した。本道初の国際的競技大会であったし、戦後初めてソビエト選手団の入国で国際親善の大きな役割を果たした。厳寒期に夜を徹してリンク造りに精進した裏方の努力と苦心はとても口では言い尽くせない。そして他国選手の体力と技術の優秀さを目前に見て、戦後十年のブランクや情勢判断の甘さ、時勢の移り変わりの激しさにがくぜんとした。
昭和四十七年(一九七二)二月三日から十一日間、札幌人・道民が一丸となってオリンピック冬季大会の遂行に意を注いだ。おごそかに、華やかに、楽しく、和やかに、これは世話をする札幌人の心である。世紀の大行事であったが、無事に果たし得た安(ど)と成功の喜びは市民すべてが感じたことであろう。オリンピックを迎えるためにも都市構造が近代化し、諸外国に札幌の認識を深め、奉仕と協力の心に徹して毎日を送った。
私はそれ以上に、高度のスポーツに心血を注いでいる選手の、未踏の世界に挑戦する姿に心が洗われた。苦痛を恐れ、汗を流すことを嫌い、危険を避ける無気力を非難する言葉を忘れさせてくれた。現実を離れ科学性を含む、動く美を感じた。それらが今までの大きな代償として展開されているのだと思った。国や人種を超えて、真理に向かう澄んだ姿である。スポーツを愛好する多くの人はそう感じたと思う。感激を残してオリンピックは去った。人々の世界に向ける目が広く見開かれ、和やかに、そして愛情を深めたことだろう。
五十年代は飛躍した札幌を、いや北海道を誇りとしての生活が重厚さを増していくと思う。雪国は雪の特性の中に知らず知らずのうちに文化を高めている。
冬の祭典
さっぽろ雪まつりは、その歴史や規模において他の追従を許さない。五十五年は大通、真駒内両会場に二〇〇に近い雪像が並び、一〇カ国の国際雪像を加えて、外人観光客も多かった。北海道の冬の祭典は全道にくまなく、時を同じくして開催されている状態で、古いものから挙げてみると
さっぽろ雪まつり 旭川冬まつり もんべつ流氷まつり 帯広氷まつり くしろ氷まつり オホーツク流氷まつり 大沼・函館雪と氷の祭典 とまこまいスケートまつり 白鳥まつり(北見市) 摩周樹氷まつり 登別温泉湯まつり ねむろ雪と氷の集い 氷雪の広場(稚内市) 層雲峡氷瀑まつり 遠軽冬まつり 支笏湖氷涛まつり
いずれも氷、雪、光、色、音が交錯して、暗い冬のイメージを払い、雪国の躍進が高まりを見せている。全世界に省エネルギーが襲来して、北海道がこれに対処する姿勢は自己保存のためでもあるし、全国の範とならねばならない。ルーフヒーティング、スノーダクト方式、ソーラーシステムと必要に迫られて家屋の様式が変わる。冬の家屋をどうするかはまだまだ研究されるであろう。その中での暮らし方をいかにするか。民族はお互いに過去の生活の中に鋭い観察と思考を重ねて文化の興隆を進めてきた。
生涯体育も冬の中に実施する方向を定めねばならない。一カ所のリフトで登り滑り降りるスキーはますます混み合い、スロープの狭あいを嘆くだろう。またそこに向かう車の洪水で事故の増発も起こる。この混雑を避けて、歩くスキーやスキーオリエンテーリングなどが盛んになったが、一歩すすめて白銀の峰に、白一色の広原に、自分の足で登り歩きして雪煙りを立てて滑る楽しみを体験しよう。
これからのスポーツ実施の傾向は、家族ぐるみのスポーツが望まれている。冬季間は使用する人影も無いような公園で、冬のキャンプを家族でやるのも、自然の中で昔をしのび親子の対話の場所ともなる。ジェット機が飛び、新幹線が走る時代で地下資源が不足して太陽熱にたよらねばならない。北国人が冬季は南国に移動したり、都市上空をカプセルで包み生活することも不可能でなくなるかもしれない。たゆまず進む人知の中で、新しい社会を産み出さねばならない時代である。札幌は今、長期展望を掲げて生き生きとした活気ある躍進を目指しているが、それは開拓の祖先が荒漠とした原野の中に今日の札幌を築きあげた歴史と似かよったものを私は感ずる。
【参考文献】
『恵寮史』恵寮史編簒委員会(昭8・11・21)
山崎紫峰『日本スキー発達史』朋文堂(昭11・11・20)
『札幌市概説年表』札幌市史編集委員会(昭30・8・15)
『体育大辞典』不昧堂書店(昭31・9・10)
『日本百科大辞典』小学館(昭38・11・25)
榎本守恵・君 尹彦『北海道の歴史』山川出版社(昭45・4・5)
北海道新聞社編『北の天気』北海道新聞社(昭51・1・26)
瓜生卓造『スキー風土記』日貿出版社(昭53・9・15)
高橋 純『スキーのふるさとおたる』国体実行委員会(昭55・2・1)
第1章 スキー
1 札幌・スキーの歩み
大野 精七
札幌のスキーの父はスイス人ハンス・コラー先生
札幌にスキーが最初に持ち込まれたのは、日露戦争後の明治三十九年(一九〇六)、当時英国公使館付武官だったデルメーランド・キーフが北海道を視察した時に、札幌月寒の歩兵第二十五連隊の将校にスキーを寄贈したのが、初めてだったといわれている。キーフは、スキーが将来の冬季間の戦闘には欠くことの出来ない“兵器”であることを教えたかったのであろう。だが、どうした理由からかキーフはこの時、実地訓練は行わなかった。
実際に札幌でスキーが始められたのは、それから二年後の明治四十一年(一九〇八)だった。農科大学のドイツ語講師として赴任したスイス人のハンス・コラーが、アルパインスキーを持参し、ヅダルスキーのスキー教本によってドイツ語教育をすると同時に、スキーの使用法を教えた。ところが、コラー先生は実技の方はさっぱりで、大学構内のクラーク博士の像があるスロープでも転倒するほどだった。
学生たちは、このスキーをモデルにして、豊平橋近くにあった馬そり屋に“和製第一号”のスキーを造らせ、構内のスロープで練習を始めた。明治四十四年(一九一一)、オーストリアのテオドル・フォン・レルヒ少佐が、「日本スキー発祥の地」と呼称する高田で、第一回の講習会を開いたのに先がけること三年。農科大学構内こそ“日本スキー発祥の地”であるといってさしつかえないであろう。スキー発祥の地の本家は「高田」ではなく「札幌」だなどと、小さな事にこだわらないのは、道産子の大らかさとでもいえようか。
大学構内“クラークの坂”でスキーが病みつきとなった学生たちは、やがて当時のただ一つのスキー場だった馬場牧場、ナマコ山などへ行って練習を行い、三角山へも足を伸ばすようになったが、滑っては転び、転んでは滑りで“七転八起”の“ヨチヨチ”スキーの域を出るはずもなかった。だが、北大のスキーはレルヒが持ち込んだオーストリア式の“一本杖”とは異る“二本杖”のノルウェー式ともいえるスキーで、その点からいっても札幌のスキーが、高田のスキーよりも数段進んでいたといえるだろう。
明治四十五年(一九一二)二月、旭川野砲兵第七連隊付の将校として、レルヒ中佐が来道、約半年間旭川に在任した間に、将校たちにアルパインスキーを教えた。この講習会に参加して帰札した月寒二十五連隊の三瓶勝美中尉ら三人の将校は、翌三月に札幌郊外の月寒でさっそく“レルヒ直伝”のスキー講習会を開いた。参加者は農科大生はじめ多数で、この講習会を機に札幌のスキー熱は急カーブで上昇し始めた。このころのスキー場は、馬場牧場からナマコ山、木の山、そこから三角山ふもとにかけての波状地帯が主なものだったが、スキー人口の増加とともに次第に東南にも移動、宮の森、小別沢、それに円山南斜面、続いて双子山あたりもスキー場として脚光を浴びるようになった。
スキー場とシャンツェ
金具の先に大きなスプリング、靴の下には重たい鉄板をくくりつけて、「ギーコン・バッタン」と、スキーをはいて歩いていた創成期の“アルパインスキー”が、しばらく主流を成していたが、大正年代に入った大正五年(一九一六)農科大学水産学科の遠藤吉三郎教授がノルウェー留学から帰国、複杖(二本杖)のノルウェー式スキーを持ち帰り、本格的な“ノルウェー式スキー”を指導した。この遠藤教授のノルウェー式スキーは、金具と締め具から成っており、アルパインスキーより、はるかに行動が敏活に出来、テレマーク、クリスチャニアなどの回転技術の習得が容易で、単杖(一本杖)のアルパインスキーを“あっ”という間に押し去り、ノルウェー式スキーの全盛期となった。いわゆる“ホッケ姿勢”=滑降に際しての屈身姿勢=は、遠藤博士の造語で、ネコもシャクシもホッケ姿勢で滑る姿が見られたのもこの時代であった。
三角山、ナマコ山周辺でクリスチャニア、テレマークで滑りまくっていた学生連中は、滑ることだけでは飽き足らず、次第に競技スキーへと興味を移し、農科大学スキー部の一行が大正四年(一九一五)の二月に、円山南斜面の練習場で平地滑走と距離競走、滑降競走、リレー、障害物競走などを行った。これが札幌における競技スキーの始まりだった。
スキーが単に滑ったり、曲げたりするものではなく、“飛ぶ”こともスキー術の一つであると説いたのも遠藤博士で、スキージャンプにはジャンプ台が無ければ技術は進歩しないと力説した。こうした新説を聞くと黙ってはいられないのが学生の常、彼らはそれではと三角山のふもとに仮設の「シルバーシャンツェ」を造って、ジャンプの研究を開始した。二〇級のシルバーシャンツェに続いて、十五級のアルファーシャンツェが、三角山一帯に造られ、このあたりが札幌のスキーのメッカとしてスキーヤーが集まり、掘っ立て小屋の休憩所というより、豚汁などを食べさせてくれる“店”も出るようになって、スキー場としての形を整えてきたのも、この時代からであったろう。
大正十一年(一九二二)になって、北大ジャンプ陣は、仮設の台ではなく固定したジャンプ台の建設を思い立ち、十三年十月シルバーシャンツェを改造、櫓を組んでアプローチを延長、スケールを大きくし、三〇級のものとして猛練習を重ねた。大正十五年(一九二六)の十二月、第五回全日本スキー選手権大会が翌年、札幌で開かれることとなった。ジャンプの本家と自認していた北大生を主流とする札幌のジャンパーたちは、シルバーシャンツェより、さらに規模の大きな“大シャンツェ”建設を札幌市に要請した。札幌市はこれにこたえてシルバーシャンツェよりも、もっと三角山に寄った地点に、アプローチ六五、ランディングバーン五〇、最大斜度三一度といわれた札幌シャンツェの建設に踏み切った。アプローチは全部櫓で組まれ、その高さ一〇、スタート台に立つと、目のくらむ思いだったとは、かつての名ジャンパー神沢謙三選手の話である。このシャンツェの設計は北大の広田戸七郎選手ら部員が当たり、ジャンプ王国にふさわしい、当時としては日本一のジャンプ台を完成した。
大シャンツェの完成で、スキー大会ごとに三角山周辺は、数千人のスキーヤーが集まり、ジャンプ大会には約六、〇〇〇人のファンが観戦に詰めかけるほどだった。これも昭和三年(一九二八)の第二回サンモリッツ・オリンピック大会にジャンプの伴素彦(北大)、距離の札幌出身高橋(早大)らが派遣されると決定した“オリンピック熱”がそうさせたものだったろう。
荒井山と大倉山
昭和四年(一九二九)一月にノルウェーのヘルセット中尉ら三人が来道、荒井山でノルウェー式走法などを指導した。この時に、将来札幌で冬季オリンピック大会を開催するのなら、国際級の六〇シャンツェが必要になる。その場所はどこが良いかと探し回った末、現在の大倉シャンツェの場所を発見した。
ヘルセットはこの時、札幌シャンツェは「着陸斜面も緩く、近代的ではない。四〇級のジャンプ台を新しく建設すべきだ」として、今の荒井山シャンツェの位置を指示した。札幌市ではすぐに着工、十二月に四〇級の櫓組みシャンツェを完成、前年の秩父宮さま、この年の高松宮さまの来道を記念し「荒井山記念シャンツェ」と命名した。この記念シャンツェの誕生で、各種大会が荒井山を中心に開催されるようになり、札幌スキー場の中心は次第に三角山から荒井山へと移って行った。
小じんまりとした荒井山スキー場は、三角山に比べて市電の円山終点から近いという、足の便利さもあって、大いに市民に利用されるようになり、自分の庭のようなゲレンデは親しみ深いものとなっていった。一方、三角山は“市民スキー場”から様相を一変して、三角山自体の急斜面を開発、アルペン競技場の主会場として、札幌では貴重なスラローム、大回転の唯一のバーンとなっていった。
また、円山南斜面は、西方に双子山の斜面を抱え、家族連れの楽しいスキー場として、特に札幌の西南地方の人々に親しまれていった。当時まだ“西山鼻線”の市電が開通しておらず、札幌・山鼻方面の南の住人は、荒井山、三角山方面のスキー行には、ほとんど双子山越えの“スキーツアー”で歩いて通った。それだけにスキー大会観戦をしない時には、ゆっくり、円山南斜面、双子山あたりで十分にスキーを楽しんだものである。札幌西南地区の学校のスキー遠足は、ほとんどが南斜面というのが当時の慣習のようになっていた。
昭和三年(一九二八)の秩父宮、四年の高松宮、両宮さまのご来道を記念して「秩父宮殿下、高松宮殿下御来道記念スキー大会」が、昭和五年(一九三〇)から始まった。いまの「宮様スキー」のスタートであった。宮様大会の第一回、第二回大会は、荒井山に建設された記念シャンツェを中心に行われた。このシャンツェは、ヘルセット中尉が在札中に広田戸七郎らを指導し、それによって設計したもので、昭和四年十二月二十日に完成し、昭和五年一月十二日の記念シャンツェ開場記念スキー大会が“こけら落とし”となった。
第一回の宮様スキー大会は二月の十五、十六日に行われたが、それまでに一月十八、十九日の全日本学生大会、二十五、二十六日、全道選手権大会、そして二月八、九日の全道中等学校スキー大会に、新装の荒井山記念シャンツェが使用され、距離競走のスタートも荒井山の下を使用、一躍スキー大会場としてクローズアップされてきた。
このころのスキーは、ノルウェーのフィットフェルト式といわれた、スキー胴体の中心に穴をあけて金具を通したものから、木ネジで固定する金具に変わり、締め具も革から次第にスチール、あるいはスプリングのものに移行、スチールバンド、スプリングバンドが流行していった。距離レースのスキーも、金具は「ベリゲンダール」が一世を風びしていたが、これは靴のつま先の両側を左右から押える式のもの。おそらく発明した人の名をつけたものだったのだろう。
昭和六年(一九三一)に大倉シャンツェが完成し、翌年一月十六日にシャンツェ開き、一月十七日に「第五回全日本学生大会」のジャンプ競技を行ったが、両日とも“東洋一の大シャンツェ”の豪快なジャンプを見ようと、二万人近くの大観衆が大倉シャンツェに詰め掛けた。六〇級と銘打ってオープンした大倉シャンツェも開場式は四〇、学生大会は山田四郎(北大)の四四に終わって、大ジャンプを期待して集まったファンをがっかりさせた。このころ、大倉シャンツェの登り口の宮の森がスキー大会の主会場となり、札幌ビールが経営した「スキーヤーズハウス」なども完成して、スキーヤーにとって楽しい休憩場となった。ここはまた、荒井山と三角山の中継点でもあり、両方のスキー場でスキーを楽しむ中間点のハウスとして、多くのスキーヤーに利用された。
札幌円山の陸上競技場が完成するまで、この宮の森が距離競走の発着点となり、全道中等学校スキー大会の会場としても盛会をきわめていった。これは大倉シャンツェが日本競技スキーの中心となったためで、大倉シャンツェを克服すること、言い換えれば六〇級のジャンプを成し遂げることが、日本スキージャンプ界の課題でもあり、世界へ飛躍する足がかりをつかむことになるからだった。大倉シャンツェを中心として札幌のスキー大会が行われるようになり、宮の森スキー場、隣りの荒井山スキー場が市民の人気を呼び、とりわけ荒井山スキー場は、手ごろなスロープと交通の便利さで、市民スキー場としての声価を高めていった。
円山競技場周辺
昭和九年(一九三四)札幌円山陸上競技場が完成し、翌十年のシーズンから円山競技場が距離競走の拠点となって、ここを中心に三角山、神社山、幌見峠、盤渓峠をエリアとする距離コースが確立されていったが、大倉シャンツェのジャンプ競技の観戦は別として、距離競走の観戦は、それぞれに荒井山、三角山、あるいは南斜面などでスキーを楽しみながら、プログラムと首っ引きで、ひいき選手を応援することが、このころのスキーファンだった。円山陸上競技場を中心とした大会場は、一番息が長く戦後の四十年ごろまで続くことになる。
ところで、ノルウェーのヘルセット中尉が来道した翌昭和五年(一九三〇)の三月に、オーストリアのサンアントンでスキー学校を経営していたハンネス・シュナイダーが来道した。シュナイダーは、アールベルグスキー術の権威としても有名だったが、それ以上に大正九年(一九二〇)狐狩りを映画化した「スキーの驚異」というフィルムによって、日本のスキーヤーに知られていた。シュナイダーが得意のアールベルグスキー術を駆使して三角山などで妙技を示し、札幌のスキーヤーたちに、基礎スキーや山スキーの真髄を披露した。この来道が契機となって、基礎スキーといわれた一般スキー術が大きな進歩を遂げた。
昭和十五年の札幌オリンピックを返上
昭和七年(一九三二)アメリカのレークプラシッドで行われた第三回の冬季オリンピックに栗谷川平五郎選手(札一中=明大)らが出場、安達五郎選手(札鉄)がジャンプに八位となってスキーファンの血をわかせ、札幌市民のスキー熱も年を追ってエスカレートしていった。昭和十一年(一九三六)第四回冬季オリンピック大会がドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開かれ、伊黒正次選手(札鉄)が七位を占めて、日本のオリンピック熱もますます揚、日本もオリンピック招致に乗り出していった。このガルミッシュ・オリンピックからアルペン競技が取り入れられ、日本の但野寛(札鉄)関戸力(現姓矢崎)両選手らは、即成のアルペン選手として出場した。もちろんスチールエッジのついたアルペンスキーを履いたのは初めてだった。欧州では既にスチールエッジとカンダハー締め具が全盛で、このころからわが国のスキー場にもスチールエッジのスキーが徐々に浸透し、ゲレンデスキーが次第に盛んになっていった。
スキーの繁栄とともに、日支事変が拡大し、日本を取り巻く国際情勢は日増しに悪化していきつつあったが、こうしたなかで日本はオリンピック招致運動を展開していった。昭和十二年六月のIOC(国際オリンピック委員会)で、第五回冬季オリンピックを札幌で行うことが条件付きで決まり、六月十日に全日本スキー連盟から通知があって、六月十九日には全日本スキー連盟の小島三郎会長が来札、札幌決定を関係者とともに喜び合った。この日札幌市では決定祝賀の旗行列を行い、夜に入っては提灯行列で、“オリンピック札幌決定”を祝福した。札幌に冬季大会が決定したことは、第一二回のオリンピックが東京に決定したことからで、札幌での開催条件は「昭和十三年(一九三八)三月のIOC(国際オリンピック委員会)カイロ会議までに、札幌開催の準備が完了すれば、札幌開催を了承するというものだった。
札幌では直ちに「札幌オリンピック実行委員会」を発足させ、委員長には石黒道長官、副委員長には三沢札幌市長と全日本スキー連盟副会長を勤めていた私が就任、事務所は札幌市役所内に置かれた。札幌ではオリンピックの施設計画として
開、閉会式場は札幌円山陸上競技場
スキー競技場は距離競走発着地点を札幌円山競技場とし、飛躍競技は大倉シャンツェを八〇級に改造、これと平行して北側に六〇級シャンツェを新設する。観覧席は主に自然の地形を利用し、四万人収容のものとする。練習用として別に二飛躍台を新設する。
回転競技場は三角山を伐開し、観覧席二千人収容のものを新設する。
滑降競技は手稲山にコースを策定する。
スケート競技場は、屋内スケート競技場を中島公園内に一万人収容のものを新設、屋外スケート場も中島公園に新設する。
ボブスレー競技場は、専門家のドイツ人、ツェンチッキー氏が来札して、札幌神社山に適地を実測し、全長一七一八、標高差一五〇、Sカーブ二カ所のほか、数カ所にカーブをつけたコースで、神社山東側にゴールするコースを設定、観覧席はコースのわきに数カ所設け、三千人収容予定。
こうした札幌の準備をふまえて、翌昭和十三年(一九三八)フィンランドのヘルシンキでFIS(国際スキー連盟)会議が行われ、欧州スキー教師のアマ、プロ問題から紛糾し、結局、FISがIOCを脱退することとなった。このため、札幌オリンピックは、IOCカイロ会議で開催が決定したものの、“スキーなし”オリンピックとなってしまった。しかし、札幌の顔を立てたFISは、オリンピックと時を同じくして「国際スキー大会」を開くことで、“お茶”を濁した。このような関係者の尽力をよそに、中国大陸における戦争は拡大の一途をたどり、ついに昭和十三年七月、日本はオリンピックを返上することを決定し、札幌オリンピックは夢と消え去ってしまうこととなった。
その後は急坂を転げ落ちるように、日本は狂気の戦争に突入、スキーも“錬成大会”“国防スキー”等の名のもとに行われ、市民スポーツとしての姿は全く見られなくなり、大東亜戦争と称した第二次大戦に突入、敗戦の渕へと沈んでいった。
戦後、大きく発展した民間スキー場
戦後の荒廃からいち早く立ち直るためには、スポーツの振興こそ大切と、スキーの復興も早々と行われた。その先陣を切ったといったら当たらないが、昭和二十一年に開発された藻岩の「米軍スキー場」は、敗戦の札幌市民にも大きな刺激となった。
いまの“地崎団地”の緩斜面に、トラックのエンジンを使った「ロープトー」を造り、次いで北海道初のリフトも設備されて、米軍将兵や家族が喜々として雪にたわむれるのを、横目で眺めていたものだった。
ここのスキー場には、外地から引き揚げてきた安達五郎、若本松太郎、それに小柳憲司らがインストラクターとなって、米軍にスキーを教えていた。進駐米軍は総合スキー場造成を目指して、この地域に小シャンツェ、大回転コースを設置した。小シャンツェは、現在の「仏舎利塔」のある進藤牧場の北斜面に、大回転コースは、藻岩山の北斜面の天然自然林を伐開した。
“泣く子と地頭には勝てない”どころか、相手は戦勝国の米進駐軍、札幌の象徴ともいえる藻岩山を“左ケサ掛け”のように伐り開いて大回転コースを造ってしまった。米軍スキー場の閉鎖とともに使用を禁止し、自然の回復を図ったが、この“傷あと”は長く残っていた。三〇年近くたったこのごろ、ようやく旧に復したのは、札幌市民にとっても藻岩山にとっても、一番うれしいことである。
戦前のスキーを引っ張り出していた札幌市民も、戦後三、四年を経て外国スキーをモデルにした国産スキーが出回るようになり、カンダハー締め具から、ラグリーメン、セミラグリーメンなどの締め具が全盛となり、ゲレンデスキーも花盛りとなった。さらに火をつけてゲレンデスキーを盛んにしたのが、小中、高校の“スキー学習”だった。これら学校の教師たちは、先を争って「指導員」の資格を取り、児童、生徒たちにスキーを教えることで、校内では貴重な地位を得ていった。こうした傾向が相乗関係となり、札幌ばかりでなく全道的に“滑るスキー”を盛んにしていった。
三十一年、荒井山にリフト
ゲレンデスキー指向のスキー場に必要とされてきたのは、当然リフト設備であった。その要望にこたえて設置されたのが、三十一年荒井山スキー場のリフトであり、北海道の第一号であった。以来、三十三年には藻岩山市民スキー場、次いでテイネオリンピアスキー場、定山渓三笠山スキー場、ふじのヘルスランドスキー場などが整備され、市民のスキー熱は年とともに向上していった。
このころには、住宅事情からの土地問題で札幌近郊はどしどし宅地化され、三角山、ナマコ山、馬場牧場周辺はいつの間にか宅地となってスキー場としての使命を終えていった。だが市有地の荒井山だけは市民愛好のスキー場として、厳然としていまに残り、将来も永続するであろうことは、札幌市民にとって大きな喜びである。
三角山などのスキー場が消滅した代替として、盤渓峠の奥に開発されたのが、盤渓市民スキー場と盤渓コバランドスキー場だったが、札幌オリンピックの男女大回転競技場、回転競技場となった手稲山の開発は、手稲山を一大スキー場とするきっかけともなった。このオリンピックスキー場の跡に造られた手稲ハイランドスキー場は、日本では珍しいTパーリフトのほか、パノラマ1号(一〇〇〇)パノラマ2号(一一〇〇)北壁(一二六二)パラダイス(五〇〇)のほか、第一回転リフトと山頂へのロープウエーが設備された壮大なスキー場となった。
一方、先輩格のテイネオリンピアも続々と施設を拡充、千尺高地に第一(七〇〇)第二(八〇〇)のリフト、ロープトー(二〇〇)を設備、見晴台にはリフト(六〇〇)ロープトー(二〇〇)を備えて、手稲山は文字通り、札幌市民の一大スキーセンターとなっている。
藻岩山市民スキー場もロープウエーばかりでなく、リフトも第四までの五本を備え、荒井山とともに“ナイター設備”を整えて、夜間スキーを楽しむ市民も、年ごとに増加している。さらに五十四年には朝里岳に「定山渓高原国際スキー場」が、札幌リゾート開発公社によって造成され、二千のゴンドラリフトを整備、札幌市民ばかりでなく、遠く本州方面のスキー客に利用されるようになって、テイネオリンピア、テイネハイランド両スキー場と並び、全国的なスキー場として知られてきている。
五十五年のシーズンからはもう一つ、真駒内常盤に「真駒内スキー場」が登場した。道道支笏湖線から空沼岳コースに入って一足らずの西側の南向き斜面、ファミリースキー場として開発、ナイター照明も完備し、“第二の藻岩山市民スキー場”を目指して、札幌市民の要望にこたえる構えだ。
このようにゲレンデスキーが全盛を極めた結果、“スキーは滑り降りるもの”としてだけに開発された“ダウンヒル用”のスキー、スキー靴は、足首をがんじがらめにしたプラスチック製のハイブーツと、ワンタッチの締め具となってスキー場を埋め尽くした。そのため、転倒した際の骨折事故が相次ぎ、小、中、高生の“学習スキー”として適切かどうかの論議も出るようになった。バスに乗ってスキー場に出かけ、リフトに乗って斜面を滑るだけのスキーが「学校体育」として、果たして効果があるのかどうかという疑問。このようなスキーが成長過程にある児童、少年の心肺機能の強化に役立っているのかどうか、スキーは本来滑るだけのものではなかったはずだ、という素朴な疑問が、最近にわかに高まった“健康づくり”“体力づくり”の傾向と合わせて「歩くスキー」が取り上げられることとなった。
歩くスキーで健康づくり
札幌市内でも三里小など山が遠く平坦地にある僻地校では、早くからスキーを履いて歩くことに注目、課内、課外教育の中で取り上げてきた。かつて札幌の山間地校だった盤渓小の児童のように、冬の間はスキーを履いて学校に通ってくる児童が多いところから、自然発生的に歩くスキーを冬の健康づくり、体力づくりに最高のものと考えるようになったのではあるまいか。このような傾向は“都会のモヤシッ子”を持つ都心の親や教師たちの間でも重視され、歩くスキーへの関心が高まっていったのも理の当然であった。
これと並行して一般市民の間でも、北欧で愛好されている歩くスキーが再認識され、札幌オリンピック後の四十八、九年ごろから市内のあちこちで、スキーを履いて汗を流す市民の姿が見られるようになった。これに伴って歩くスキーのコースも、市内の有志によって真駒内公園、円山公園、中島公園などに造られていった。現在市が「歩くスキーコース」として認め、管理しているコースは、四十九年、最初に設けられた「真駒内桜山コース」をはじめ、真駒内公園には四コース、白石もみじ台には三コース、野幌森林公園には四コースなど、円山、中島、月寒、旭山、南郷などの各公園十九カ所に二七コースが設定されている。
一般市民の歩くスキーへの関心が高まるとともに、歩くスキーを教えてもらいたい、という希望も高まり、五十年秋に「札幌歩くスキークラブ」が誕生して、スキー界のOB連中が指導に乗り出した。五十一年一月には「道民歩くスキーの集い」を、西岡の距離コースで行ったところ、約四〇〇人の市民が集ったが、この催しも年々盛大となり、五十五年には約一、三〇〇人の参加をみるほどに成長した。五十一年十二月には初の「歩くスキー講習会」を市内六カ所で開くなど、札幌歩くスキークラブが発展して組織した「北海道歩くスキー協会」(本郷精一会長)は、例年初心者講習会を開いて、市民の健康づくりの手助けを行っている。
歩くスキーの人気を爆発的に盛り上げた一つに、フィンランドから来札して普及に努力したピヒカラさんを忘れることは出来ない。スキー冒険家の同氏はグリーンランド横断などの経験を生かして、歩くスキーの楽しさをPR、北欧人がいかに冬を楽しく過ごしているかを教えてくれた。同氏は札幌をはじめ名寄など道内各地でも講習会を開いて、この運動の発展に尽くしてくれた。
その結果ではないが、宮様スキー大会にも歩くスキーパレードが取り入れられ、三笠宮寛仁殿下が先頭に立って歩かれるなど、年とともに盛んになっていることは、「歩くスキー」がスキーの原点であるだけにスキー人としてこの上ない喜びを感じている。
2 ノルディックスキー
小原 正巳
スキーが競技として定着する以前に、人類の生活の必要な道具であったことは歴史がこれを証明している。紀元前七世紀とも五世紀ともいわれる時代、われわれの先人はスキーの原点ともいえる「カンジキ」や、それより進化した「ストー」を使用して、冬の狩猟に使っていたことはよく知られている。
北海道の先住民族といわれるアイヌ人も狩猟民族であり、樺太のギリヤーク、オロッコなどと同じに、冬はキツネ、アザラシ、テンなどの毛皮動物を狩って歩いたものであろう。その雪深い冬の間、雪に埋まらない歩行具としてカンジキの類似品が考えられたのは当然である。次にカンジキをはいて行動しているうちに、出来るだけ埋まらずに雪や氷の上を早く歩く、というより動物を追って走れるものを考えるようになったのであろう。それが次第にカンジキを長形化し、スキーに発達していったものと考えられている。
ノルディックスキーが、アルペンスキーに先がけて発達したのは、狩猟民族の“必需品”であり、ノルウェー地方で著しく進歩を遂げたことからそう呼ばれるようになったものである。アイヌやギリヤークが狩猟に使ったスキーの前身「ストー」は、一前後のものが多かったようだが、現在のノルウェー式のスキーのような二前後のものになるには、平地の多かったスウェーデン地方のように三近いものもあり、山岳地方のノルウェーなどでは比較的短かい一・五ぐらいのものが多かったといわれている。それが長い年月の間に現在のような長さのものに変わってきたものといわれている。
距離競走
狩猟民族が獲物を追うために、行動の敏しょうなスキーを発明して、毎朝のように自分の仕かけたワナを見回りに行く。狩人各自の狩猟範囲は自然に決まっていて、出来るだけ早く自分の狩り場を回って獲物を回収するのが、日常生活だったことは容易に想像できる。そんな猟師同士が「オレの狩り場を、オ前は何時間で回れる。オレは三時間で回ったんだ」などの自慢話から「イヤ、オレならもっと早く回ってみせるよ」などの“足自慢”がエスカレート、「よし、ではオレと一緒に回ってみようじゃあないか」などという話になり、原始的な距離競走の原型が出来たのではなかろうか……というような想像をたくましくしてみたが、必ずしも的はずれの話ではないと思う。
もう一つ、人間は本来何人か集まると競争心が自然発生的に出てくる。村の祭りで「力くらべ」や「足くらべ」が行われたのも本能的なものであったろうから、狩猟民族が冬にスキーを履いて“走りっこ”を始めたとしても不思議ではなかったろう。
スキーの先発国ノルウェーでは弘治三年(一五五五)、今から四〇〇年以上も前に、既に競技会を開いていたとの記録があり、一八四三年ノルウェーのトロムソで初めて本格的な競技会が盛大に行われた。
ではわが国、北海道、札幌ではどうであったかというと、大正三年(一九一四)二月二十二日、農科大学スキー部員により、銭函で二レースが行われたのが最初だとされている。だが、残念ながらこの時の記録は残っていない。翌大正四年(一九一五)二月二十一日、円山南斜面を中心に同スキー部の一大競技会が行われた。一・五の平地競走は旧札幌師範(現在の医大病院)から円山に向かって行われ、柳沢秀雄が一一分で走破したほか、二のディスタンスレースも行われた。このように初期の競技会はすべて東北帝大農科大学スキー部(現北大)のリードで始まったが、大正六年(一九一七)には、札幌―石狩間往復の平地滑降が行われた。これが北海道における“耐久レース”の初まりといってよいだろう。
大正九年(一九二〇)一月二十五日に、わが国最初の中等学校スキー駅伝競走が、小―札幌間で行われた。スタートは小水産校付近で、ゴールの北大グラウンドまで約三〇を七区に分けて走った。参加は札一中、札師、北中、中、水、商、北商の七校で、激しいレースの末、小商業が三時間四二分三七秒で優勝。この駅伝が後の全道中等学校スキー大会を開催させる意義深い大会となった。
「第二回中等学校札駅伝競走」は、大正十年(一九二一)一月三十一日に行われ、参加八校だったが、小商業が三時間三二分九秒で連続優勝を遂げた。翌大正十一年、中等学校駅伝競走は形を変え、区間を軽川大曲―札幌間の一〇とし、四区間に分けて走ったが参加校は八校、この年も商が一時間一六分で三連を成し遂げた。大正十二年(一九二三)一月二十八日の第四回中等学校駅伝競走では九校が参加し、小中学が五四分一八秒で初優勝を飾った。
二月三、四日には小で「第一回全日本選手権道予選大会」が開かれ、距離競走は一、一〇の二種目が行われ、翌週の二月十、十一日の両日は小で「第一回全日本選手権大会」が開催された。
競技は距離競走が一、四、一〇と八継走、それにテレマーク、クリスチャニアとジャンプで、樺太、北海道、東北、信越、関東、関西の六地区対抗とされたが、関西は出場しなかったので五地区対抗となった。これより先、道予選を終わった段階で北大勢は、この第一回大会を後援した小スキークラブが、スキー競技規程についての北大との約束を履行しなかったため、声明書を発表して絶交し、出場しなかったので、北海道代表は小勢だけの形となった。一は中上野秀麿が五分五九秒、四は樺太の秋山広治が二七分四秒、一〇は樺太の島本孫一が一時間三分四〇秒でそれぞれ優勝、八リレーは商(野中十郎、畠山一二三、金田芳雄、児島小一)が四九分五秒で樺太、関東、信越を押えて初優勝を遂げた。
第二回大会は新潟県高田で開かれたが、距離競走は早大生を主力とした信越勢に全種目のタイトルを奪われた。
ところで、「第一回北海道選手権大会」は大正十三年(一九二四)札幌で開かれたが、全日本スキー連盟の誕生した大正十四年(一九二五)から、距離競走は四、一〇、一六と、一六継走の四種目となり、コースは国際的に採用しているノルウェー式コースとして、スタートとゴールを同一地点にすることとした。というから、このあたりから競技会としての体裁を整えてきたといえる。
距離競走は大正十五年(一九二六)の第三回道選手権大会から二五、一〇、二四継走となり、俗にいう「耐久」「長距離」「リレー」の三種目に定着した。
日本の距離競走が、耐久という名称で五〇レースを行うようになったのは、昭和三年にサンモリッツのオリンピックに参加した翌々年の昭和五年が初めてであり、一五、三〇、五〇の三種目に分かれたのは戦後の昭和三十七年からである。
女子の距離競走が、北海道選手権、全日本選手権の正式種目となったのは、昭和二十九年からで、五、一〇の二種目に分かれたのは昭和四十年からである。北海道というより札幌においては、戦前の昭和八年札幌全市小学校スキー大会で、女子小学生が一競走を行った記録が残っており、この年の二月十九日に「第一回女子スキー競技会」が札幌宮ノ森で開催され、継走競技だけを行って、北海高女B(荏原和子、柏野カヨ、梶田キクエ、中村勝子)が二九分四六秒で優勝している。二、三の距離競走が行われたのは、昭和十年(一九三五)の第三回大会からで、全道の高等女学校が参加するようになった。二競走は六四選手が参加し、鈴木安子(旭川高女)が一〇分四五秒で、三は四八選手が参加、木村密子(名寄高女)が一〇分二九秒で一位となっている。だが、第七回大会の昭和十四年(一九三九)から再び継走だけとなり、第八回大会を最終に大会が無くなってしまったのは、まことに惜しいことだった。
距離競走のルール
コースについては、競技に参加する選手の体力や耐久力、それにスキー技術の本当のテストになるように設けなければならないとされており、自然の地形を利用した変化に富んだものがよいとされている。原則として平地、登り、降りが三分の一ずつ配置されなければならないが、余り長い登りや急な登り、非常に難しい危険な降りは、単調な平地とともに避けるべきだ。また、きつい登りを最初の二、三に設けてはいけないし、長い降りをゴールの前一に設けるのは好ましくないとされている。
コースの距離は男子少年組が一〇、一五、成年組が一〇、一五、三〇、五〇で、女子は少女組が五、成年が五、一〇、二〇となっているが、日本では成年一〇と女子二〇は行っていない。
標高差は五が一一〇、少年、女子の一〇が一五〇、男子一〇と少年一五は二〇〇、男子一五とそれ以上は二五〇となっている。極限登高といわれる一つの同じ登り、言い換えると途中に平地や二〇〇以上の降りのない登りっ放しのコースは、五で五〇、女子一〇以上、少年一〇、一五は七五、男子一〇以上は一〇〇を超えてはいけないことになっている。もちろんコースは決められたところを走らなければならないが、コース途中には関門が設けられてあり、関門員が通過者をチェックするようになっている。
コースの標織は、レーサーが迷わないようにはっきりしたものを使用するが、全日本選手権では、女子五は青、一〇は紫、リレーは赤と青、男子一五は赤、三〇は黄、五〇はオレンジ、リレーは緑と黄を使用して、選手がコースを間違わないように配慮している。
ジャンプ競技
ジャンプ競技の起源は定かではないが、一説によると、北欧で冬の間、罪人を処罰する一方法として、ガケから突き落としたのが始まりだといわれている。しかし、記録にあるスキージャンプの起源は明治十二年(一八七九)ノルウェーのテレマークに住んでいたジョルジャ・ヘンメスウッドという靴屋の少年が、クリスチャニア(現在のオスロ)のヒュースビーの丘で二三を飛んだというのが、近代のジャンプのスタートとなった。
わが国でスキージャンプが始まったのは、スキーが普及してしばらくたった大正五年(一九一六)に農科大学水産学科の遠藤吉三郎教授が、北欧の留学を終わって大学に帰任してからだといわれている。その翌年、中出身で農科大生だった大矢敏範が小商業の裏山あたりに台を作って、独学でジャンプの練習をしているのを知った遠藤先生と農科大スキー部員は、雪の台では不十分と板きれを持ってきて仮設のジャンプ台を造った。これが本邦初のジャンプ台だったと思われる。
その後同大生の木原均、緒方直光、広田戸七郎、大矢敏範らによってジャンプ競技の研究が続けられたが、大正十二年(一九二三)北大スキー部では三角山ふもとに、固定ジャンプ台の「シルバーシャンツェ」を完成させた。この年の二月三、四日、第一回全日本スキー選手権大会の道予選が小緑ヶ丘で行われた。ジャンプには札幌を代表する北大からは南波初太郎、稲積猶、緒方直光、村本金弥、伴素彦、青山馨らが参加し、南波、稲積、緒方、村本、青山が二位から六位までを占めた。翌週同所で開催された全日本選手権には北大勢は棄権、第一回の全日本ジャンプは、小高商の讃岐梅二選手が一六〇一を飛んで優勝した。
第一回北海道選手権大会は、大正十三年(一九二四)北海道山岳会が主催して、二月三、四日札幌で行われ、ジャンプ競技はシルバーシャンツェで挙行された。一位は一二四〇を飛んだ北大の青山馨、二位も北大の緒方温光が占めた。この年の全日本は新潟県高田で開かれ、ジャンプは緒方直光が二〇四〇を飛んでタイトルを獲得した。また同年二月二十七日、札幌で札幌中等学校ジャンプ競技会が開かれ、小中学が優勝している。
この年の十月、北大生たちはシルバーシャンツェを大改造し、櫓を組んでアプローチを延長し、三〇級のシャンツェとした。これは高田、豊原など札幌以外の地に三〇級シャンツェが出来ており、ジャンプの本家札幌に同じくらいの台が無いのは、メンツにかかわるというところからの改造になったものだろう。この改造したシルバーシャンツェで、大正十五年(一九二六)の二月二十二日に北大スキー部のジャンプ大会が行われ、村本金弥が二八二〇の日本新記録を作った。
大正十五年の第四回全日本選手権のジャンプは二月七日、樺太の豊原シャンツェで行われ、北大の伴素彦が一八・八点(二二二〇、二一七〇、二一二〇)を飛んで優勝、最長不倒は中出身の秋野武夫(東京薬専)の二五一〇だった。
この年の十二月、第五回全日本スキー大会が札幌で開催されることに決定した。この大会に備えて札幌市では一大飛躍台を三角山に建設することとし、広田戸七郎ら北大スキー部員が設計し、アプローチは櫓組みで六五、櫓の高さ一〇、三五の飛距離が出るように造られた。
この十二月二十五日、大正天皇が亡くなられたため、明けた昭和二年の第五回大会は中止となったが、翌昭和三年には第六回大会として札幌で行うことになった。
ジャンプ競技はいうまでもなく新設の「札幌シャンツェ」で挙行した。だが残念だったのは、二月四日の夜半から降り続けた雪は三〇を超え、五日早朝から台の整備を始めたものの、着陸斜面の踏み固めが十分に出来ず、転倒者が続出した。北大の小林、村本、樺太の牧田、早大の富井らの名手もこの犠牲となり、試合中も吹雪と突風でしばしば競技を中断しなければならなかったのは、新設シャンツェの晴れのスタートとしては、恵まれたものとはいえなかった。
この年から飛距離が五〇単位で計測されるようになったが、悪コンディションだったため待望の三〇ラインはオーバーできなかった。優勝は神沢謙三(北大)三一八・三一(二五、二七、二四)二位高田与市(豊原)三位大森数雄(豊原)四位杉村鳳次郎(北大)五位永井勝夫(網走)六位森山盛夫(豊原)で、ジャンプ王国北大の牙城に迫った樺太勢の進出には目を見張らされた。最長不倒は村本金弥(北大)の二八だった。
翌昭和四年は北海道スキー界にとっても、札幌のスキー界にとっても記念すべき年だった。ノルウェーからヘルセット中尉をはじめ、スネルスルード、コルチルードの三人が来道、オリンピック用のジャンプ台建設、近代ノルディックスキーの指導を行ったことである。
ヘルセット中尉は、来道に際して「私はこのたび秩父宮さまのご希望により、日本に世界的なジャンプ台を建設するとともに、ノルウェー式スキー技術を紹介するため、大倉男爵の招きでやってきました。私たちの努力が、日本スキー界の将来の発展に資するところがあれば、これに過ぎる喜びはありません」との挨拶を述べ、来道が秩父宮さまのオリンピック用シャンツェ建設とスキー指導への要請であり、来日が実現出来たのは大倉喜七郎男爵の尽力であることを広く北海道の人々に紹介した。
このヘルセット中尉ら一行の来道で、日本スキー界は近代化へのスピードを急速に早めた。昭和四年十二月七日にはホルメンコーレンスキー連盟にならって、大野精七氏らが札幌スキー連盟を創立し、十二月二十日には、ヘルセット中尉の要請になるジャンプ台を札幌荒井山に建設し「札幌記念シャンツェ」と命名し、北海道のジャンプ界は四〇時代へと突入することとなった。記念シャンツェ建設と併行して大倉シャンツェの建設が着々と進行する中で、昭和五年(一九三〇)から宮様スキー大会が開始された。
荒井山の記念シャンツェは、一月十二日に開場記念大会、続いて全日本学生大会、全道中等学校大会などが行われた。全日本学生大会は法大の新井昌典が優勝、全道中等学校大会は小島謹也がタイトルを握った。記念シャンツェは昭和五、六年の二シーズン、北海道スキー界のメッカとなったが、昭和六年十二月に、ヘルセット中尉の設計した「大倉シャンツェ」が完成、昭和七年(一九三二)から東洋一の大倉シャンツェに舞台が移り、日本ジャンプ界も世界に肩を並べる大シャンツェでの激突を続けることとなった。
大倉シャンツェ開場式は一月十六日に行われたが、式後の初飛びでは浜謙二(札ツェンネ)長田光男(北大)が三四を飛んだだけで、万余の観衆をがっかりさせた。翌日は折から挙行中の全日本学生大会のジャンプ競技が行われた。だが、レコードは優勝した山田四郎(北大)の四四五〇に終わった。この記録は二月十五日の全道中等学校大会で軽く更新された。竜田峻次(中)が四七、四三を飛んで優勝、二位の小島謹也(札商)も二本目に四九五〇をマークしたが、五位に入った新人三年生の松山茂忠(札一中)は、二本目に五一五〇と国内で初めて五〇ラインを突破する大記録をマークした。
この五一五〇を出発点として、大倉シャンツェを本拠地にした日本ジャンプ界は、昭和八年浅木武雄(中)五六と伸ばした。このころから大倉シャンツェは、アプローチのたるみを直線的に雪で補修するとともに、本格的な土盛り工事も行って、記録はぐんぐんアップしていった。七〇に達したのは昭和十二年の星野昇(北商)が宮様大会の二本目にマーク。そして戦前不滅の記録といわれた七九の大ジャンプが浅木文雄(北商)によって成就された。現在の“新大倉シャンツェ”でいうと一二〇ぐらいに換算される大記録といわれている。
戦後は本格的な大倉シャンツェの相次ぐ改造で九〇級に変身し、三十二年佐藤憲治(東圧)が九〇の大台に乗せ、菊地定夫(クロバー)は五日後に九一と更新、一〇〇も間近かと思われた三十八年、菊地定夫(雪印乳業)は遂に一〇二と一〇〇ラインを突破した。その後一〇〇ジャンプ時代を迎え、菊地についで藤沢隆(余市=早大)笠谷幸生(余市=明大)青地清二(桜陽=明大)らが進出、札幌オリンピックを前に大倉シャンツェを根本的に大改造して、山容も改まるほど。この大改造を機会にK点(極限点)が一一〇となり、このレッドラインをはさんでのタイトル争いが続き、こうした笠谷を中心とする競り合いが札幌オリンピックのメダル独占につながったといえるだろう。
ジャンプ競技のルール
ジャンプ競技は飛距離と飛型の合計で勝敗を争う。九〇級ジャンプを例にとると、予定飛距離のTP、一〇〇を六〇点とし、一は一・四点で一〇二を飛ぶと六二・八点の飛距離点が与えられる。飛型点は五人の審判員によって、減点法で採点され、最高点と最小点をカットして中間の三人の点数を採点する。各人の飛型点の持ち点は二〇点でアプローチ(準備滑走路)で転倒した場合は〇点、ジャンプして転倒した場合は一〇点減点などの採点基準によって、審判員が点をつけるが、いまだかって三人の審判員に満点をもらい、六〇点をつけられたジャンパーは一人もいない。
減点の指針となっている飛型審判指針を紹介すると、空中姿勢で伸びない膝折り曲げ過ぎた腰曲がった背中前傾不足不安定な身体操作あまりに上向きのスキーあまりに下向きのスキースキーの上下交差。
以上のような例は減点の対象となり、次のように減点することになっている。
わずかなミスや空中前半で前掲の誤りがあってもすぐに直した時は〇・五〜四点。
空中全体にわたったミスや、後半に出た誤りが直されなかった場合は二〜四点。
また、着地動作も重要なポイントとなり、早過ぎる着地準備前傾の不足した着地弾力のない着地過度に上体を折り曲げた着地深過ぎる着地両足のそろった一足着地不安定な着地、またはその後の不安定、などが対象となる。具体例を示すと、
着地の際、または着地が原因の転倒は一〇点。
両手を雪面、またはスキー上面にふれて立ち上がった時は八点。
片手を雪面またはスキー上面にふれて立ち上がった時は二〜四点。
テレマーク姿勢のいろいろな変形は〇・五〜二点。
テレマーク姿勢ではないが、スムーズでバランスのとれた着地は二点。
テレマーク姿勢ではなく、低過ぎるか堅過ぎる着地は二点。
テレマーク姿勢ではなく、低過ぎるか堅過ぎ、両スキーも開いていて、クローチング姿勢(うずくまった姿勢)が残っているものは四点。
不安定な姿勢でアウトライン付近を滑った時は六点。
空中姿勢の最後に現れたミスを直さなかった場合は二〜四点。
以上のような例はそれぞれ表示したような点数が減点される。
複合競技
ノルディック・コンパインドといわれる複合競技は、本場ノルウェーではその優勝者を「キング・オブ・スキー」スキーの王様といって賞讃している。簡単にいうと「走る」ことと「飛ぶ」ことの両方を合わせた成績で争う競技であり、一五競走と七〇級ジャンプの両種目の総合競技であり、戦前は距離競走を前半とし、飛躍を後半に行っていたが、最近は飛躍競技を先に行い、距離競走をあとから行うように決められている。
最初にコンパインドが行われたのは、大正十五年(一九二六)三月二十一日の北大の部内大会で、杉村麟太郎が一八・〇四で首位を占めている。正式種目として全日本などの各種大会に採用されたのは、昭和四年(一九二九)からで、この年札幌で行われた第二回全日本学生選手権には神沢謙三(北大)が一七・五〇四で優勝、全日本選手権も同選手がタイトルを握った。
複合競技で思い出されるのは、昭和七年アメリカのレークプラシッドで行われた「第三回冬季オリンピック」で、栗谷川平五郎(札一中=明大)が二本目に惜しくも転倒して三位入賞を逸したことだろう。その後複合三羽ガラスといわれた久慈庫男(北中=早大)坂田時人(札商=慶大)菊地富三(樺太大泊中=明大)ら優秀選手が出、戦後は佐藤耕一(高=明大)藤沢隆(余市高=早大)板垣宏(潮陵=明大)谷口明見(札西高=札鉄)らと続いて、札幌オリンピックで勝呂裕司(札幌)選手が五位に入賞を遂げることにつながったわけである。
複合競技のルール
TPを七五とすれば、一一・六点。距離競走で首位の走者が五八分三〇秒で走ったとすれば、この走者に二二〇点差が与えられ、二〇秒離された五八分五〇秒の選手には二一七点、一分離された選手には二一一点の得点が与えられる。だから前半ジャンプで二〇点離されても、後半距離で二分一四秒離すと〇・一〇差で逆転できるという計算が、複合の距離計算表から引くことが出来る。
複合では距離の首位が二二〇点、ジャンプの首位はそれ以上の点数を取れる可能性もあるので、一分で九点差しかつかない距離競走より、差が大きくつきやすいジャンプ競技を、どちらかというと重視しているように思われる。
3 アルペンスキー
中川 信吾
アルペン競技の草分け時代
オリンピックでアルペン競技が初登場したのは、昭和十一年(一九三六)の第四回冬季大会の行われたガルミッシュ・パルテンキルヘン(ドイツ)の大会であるが、ヨーロッパで初の公式戦が開かれたのは昭和三年(一九二八)オーストリアのサンアントで開かれた「アールベルグ・カンダハーレース」が最初といわれている。
日本にこの滑降、回転競技であるアルペン種目が全く新しい競技として公式レースとしてお目見えしたキッカケを作ったのは、ガルミッシュのオリンピックである。このオリンピックには日本からはノルディック種目である距離、純飛躍、複合競技の三種目の選手が派遣され、アルペン種目の選手は含まれていなかった。もちろん、この大会では新複合競技として滑降、回転競技が加わっていたことは明らかであったが、当時日本の国内では昭和五年(一九三〇)にオーストリアからハンネス・シュナイダーが来日して全国にその妙技を披露したのが動機になって“山スキー”より一歩進んだゲレンデスキーともいうべきスラロームを中心にしたアルペンスキーが普及しだした。
北海道で初めてこの種目がいわゆる公式戦として姿を現したのは第四回のガルミッシュ・オリンピックの前年である昭和十年(一九三五)三月十日のことで、円山の奥のゲンチャンスロープ(現在は一部が旭山公園になっている)で行った「第一回スラローム大会」である。この大会のプロデューサーは、当時丸井百貨店運動具売場に勤務していたオーストリア人のクヌート・オールセンと、第三回冬季オリンピック大会(レークプラシッド)の一八距離競技で一二位になり、日本のスキーを世界に示した栗谷川平五郎、当時の北海タイムスのスポーツライターだった岩根秀夫である。
オールセンは来日前からヨーロッパでアルペンスキー競技の経験があったらしく、また栗谷川も外国遠征でアルペンスキーを見学しており、岩根も文献などで勉強していた。そしてこの大会を主催したのは「札幌スラローム倶楽部」であった。
この大会に出場している矢崎力(旧姓関戸、札鉄、ガルミッシュ・オリンピック代表、現在北海道歩くスキー協会副会長、道スキー連盟顧問)新妻正一(札鉄、第一一回全日本スキー大会回転三位、現プレイばんけい総支配人)の話によると、このスキークラブは同大会を開催するため、にわかに設立したもので、大会顧問には野口喜一郎、広田戸七郎、三瓶勝美、大野精七、小国孝臣、河合裸石など日本スキー界育ての親ともいうべき人々が名を連ね、役員長には岩根、競技部長にオールセン、審判長に栗谷川の三氏。審判主任は西儀四郎、通告主任に駒木根公記、出発主任に小野寺将、時計主任に天近豊蔵らが名を連ねる豪華メンバーで、そのほか当時のスキー、陸上競技関係の大先輩が世話役をかっていた。
当時のプログラムによると大会運営費用の大部分を出したのは現在の丸井今井デパートの前身である丸井百貨店をはじめ岩井靴店、石井運動具店、三越百貨店であった。
大会はA、Bの二本のコースがセットされ、Aコースは一五関門、BコースはAコースの途中から分かれた一三関門。コースの長さは定かでないが優勝したのは関戸力選手(札鉄)で合計タイム一分四〇秒八(一本目一分二秒六、二本目三八秒二)二位山田四郎(北大OB)三位高杉直幹(札幌ク)四位片山(札鉄)五位新妻(同)と並んだ。このほか参加選手にはジャンプ選手の浜謙二(山印)伊黒正次(札鉄)安達五郎(同)関口勇(北大若老)、さらに距離選手の三瓶重成(現姓本郷、北海道歩くスキー協会会長、札幌バイアスロン連盟会長)のほか但野寛(札鉄、ガルミッシュ・オリンピック代表)坪川武光(早大OB)宮崎兼光、高橋貞助、三瓶進(以上、椴松ク)、犬石秀雄(札幌ク)のほか、ただ一人の女性小国貞子(名寄高女)ら、スキー界のみならず陸上、バスケット、テニスの選手など六八人が出場した。
翌昭和十一年二月十六日に札幌市三角山裾にあった札幌市最古のシャンツェといわれているシルバーシャンツェ横のスロープで開かれた「第一回全国国鉄スキー競技大会兼第三回札鉄管内スキー大会」が北海道としては全国的スケールの回転競技である。
この大会は一本勝負で関門は一五双旗、もちろんセッターはオールセンだ。新妻正一選手が四八秒で優勝、二位は矢北幸雄選手(札鉄)の五〇秒。この二月十六日という日はちょうどガルミッシュ大会の最終日であった。
さらに昭和十一年には本格的なアルペン競技が休むひまもなく札幌を中心に開かれている。三月一日には北海タイムス社(現在の北海道新聞社の前身)主催による「春香山滑降競技大会」。三月十四、十五日には小新聞主催の「第一回滑降、回転競技大会」が札幌岳で滑降競技、札幌市荒井山で回転競技を行い、四月三日には北海タイムス小支局主催で「第一回スラローム競技大会」が小天狗山で開催されている。
春香山滑降レースは標高九〇六の頂上から札国道にある十万坪(地名で現在の小市桂岡)に至る全長約四千。関門は二カ所、前半は樹林の間を通る急斜面で、雪が深いため、滑りながら方向を転じることは困難なところがあり、数回キック・ターンを必要とし、コースの中間に約二〇〇の平地というよりも、むしろ緩い登りコースが含まれ、この地点をいかに早く走るか、ストックで押し切るかが勝負の分岐点となった。結局優勝はランナーの三瓶重成(札鉄)が七分三九秒で一位、二位も三瓶のライバルであり、名ランナーの安藤稔(北大)が七分四五秒で続いた。四位までがランナーで占めたが、上位四人ともいずれもレース用で参加していた。
札幌市荒井山の大会の模様は当時の新聞紙上に、「冬季オリンピック競技の白眉とうたわれ、新たな人気の焦点を占むるにいたった滑降と回転競技技術を促進し、オリンピックへの登龍門たらしめんと……。荒井山頂上より決勝点にいたる難関を突破するスキー技術の妙技を発揮し、軽快に、また大胆に回転する競技は観衆の目を驚かし、本道のスキー技術の向上に力強い感銘をあたえた……」とある。
札幌岳で行われた二回目の滑降コースはほぼ頂上の千台地から定鉄沿線滝ノ沢の札幌岳登り口までの夏道を利用した約四千で行われた。コースの中間には約三〇〇の平地があるため、この地点で腕力にものをいわせてストックで押し切った者が上位を占めた。ちなみに所要タイムを紹介すると、壮年一位の鈴木選手(椴松ク)一三分五一秒、少年は小島選手(ホッパネ、早大)一〇分四六秒、成年は新妻選手(札鉄)の九分五〇秒。関門は二カ所だけだった。
小天狗山でのスラローム大会には一七〇人が申し込み、少年、成年の区別なしの競技でスタート順は抽選で決められていた。一位になったのはゼッケン一〇四番にスタートした若本松太郎選手(ホッパネ、札鉄)の一分二〇秒八(一本目三六秒四、二本目四四秒四)、兄の若本宇之吉選手(札鉄)も同タイムの一分二〇秒八(一本目三六秒二、二本目四四秒六)だったが、二本目に上位になった弟の松太郎選手が優勝となった。この大会にはジャンプ用、エッジの付いた本格的なアルペンスキー、レース用などいろいろで、結局はアルペンスキーを履いていた弟が勝ち、レース用で出場した兄が二位となった。
このアルペン競技の草分け時代ともいうべき時に開かれた数多い大会の出場メンバーの中には距離競技、ジャンプ競技の選手が中心で、戦前、戦中、戦後の全日本スキー選手権でを競った名選手の名前が連なっている。
オリンピック帰りの関戸力、但野寛をはじめ、当時長距離で実力者でありながら予選でワックスに失敗し三位となりオリンピック代表を逃した三瓶重成のほか、昭和十年の第一〇回中等学校スキー大会の長距離でゼッケン一番でスタート、終始深雪の中を走り通して堂々二位に入り、札鉄時代は全日本の長距離で活躍したばかりでなく、新複合で名をはせた中川信利(札商、札鉄)、札商から早大に進み新複合で常に上位を占めた由月清夫、耐久の山口靖夫(早大)梅田十士夫(明大)、箕輪正治(小製缶)、ジャンプ陣では浅木文男、星野昇(明大)菅野駿一(小高商)浅木武雄(小